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大好きなあなたへ…2/5

転機

 発達の遅れがあった一番下の娘は、市の児童発達支援センターへ通園させていた。この園での2年と数か月は、私の目から見て娘が一番幸せな時間を過ごしていた時期だと思う。大好きなブランコや水浴びの写真では、今でも満面の笑みを浮かべている。
 
 平成24年7月。大きな転機が訪れた。発達に関する病院受診を園から勧められ、大きな病院へ。先生から、「今日はどのような目的で来られたのか、診断を付けたいということか?」の一言。そして、自閉症の診断が付いた。

 私は、事実を淡々と受けいれた。感情的にならず、少しでも成長を促す方法は何か、今後どのように育てていけば良いのか、分からない事ばかりだったので、関係図書を何冊も読み漁った。
 
 しかし、この子は出来る子だ、普通の子として、立派に育ててみせるという妻と意見が合わなかった。児相の判定では重度だったが、療育手帳を取得していない。夫婦間の意見の食い違いが、何よりも辛かった。

小学校入学

 平成26年4月。3人の子供たちが、6年、4年、1年生として地元の学校へ揃って通い始めた。娘は、話し合いの結果、地元の小学校普通クラスへ入学。母子通学を条件に何とか認められた。
 
 仕事の帰りに一人で小学校へ立ち寄り、教頭先生へお願いへ伺った日のことをよく覚えている。「普通クラスへの通学は、辛いものとなるでしょう。」「過去にも同様の事例を経験しておりますが、3年生くらいで皆さん支援クラスへ変更されています。」とのお言葉。そうだろうな、と思ったが妻の方針は変わらない。

不登校

 程なくして、上の子が学校に行けなくなった。元々学校に馴染めていなかったのだが、とうとう限界が来た。理由は未だに語ろうとしない。この子は、以後高校2年に上がるまで、通学から遠ざかる事になる。

 真ん中の子にも、軽度の発達の遅れがあった。高学年になり、周囲と馴染めなくなり不登校気味に。6年生になる年に、下の子と一緒に支援級へ編入させた。若干、いじめられていた。
 
 3人の子供たちそれぞれが課題を抱えており、妻は日々疲弊していった。このため、この頃は日々「私が何とかせねば」の一心だった。

ワークライフバランス

 我が家が子育てに奔走した平成10年代後半から20年代は、ワークライフバランスという概念が定着しておらず、働き方に対して硬直的だった。残業が美徳とされ、どれだけ仕事で結果を出しても、早く帰る者は手抜き扱い。

 妻が体調を崩しがちだった事もあり、無理を言って有給休暇を限界まで取得した。職場の視線に後ろ髪引かれながら、出来る限り早く帰った。

 帰宅後は、子供達の相手と全員分の食器洗い。買い物、掃除に洗濯、子供をお風呂に入れ、子供たちの靴を洗う。町内、学校行事に積極参加。3人分の学校提出書類の記載など、自分の時間はほとんどなかった。

 主婦の方のご苦労、よくわかります。でも私は案外平気だった。自分の時間を使う、生きがいを感じる趣味なんて元々なかったので、たまに仲間と飲みに行ければそれで十分だった。
 
 この頃、元東レ経営研究所の佐々木常夫氏の著書をよく読んだ。ワークライフバランスのお手本として、また、似通った家庭環境の中で、仕事も家庭もやり遂げた氏の生き様に憧れて。

転居

 平成29年3月。家庭の状況を何とか打開しようと、妻の実家近くにローンを組んで住居を構えた。子供たちを転校させるため、また実家からの支援により、妻の精神状態を落ち着かせる為に。

 自分のことは自分でやる主義の私にとって、身内とはいえ人に頼るというのは苦しいものだった。でも、これで家の中がよくなってくれればと思い、決断した。

 この時、厳しい母から釘を刺された。
「誰が子供たちを育てるのだ」「甘ったれるなよ、自分で育てるのだぞ。」

昇進

 時を同じくして、会社では管理職に登用された。登用に際しての面接では、多様な働き方の必要性、無駄な残業時間の削減について述べた。ちょうど、悲惨な過労死に対する世の中の受け止め方が変わった頃だ。

 人手不足の状態が続くのなら、フルタイム、フル残業が可能な人材だけで仕事を回せる時代では無くなる。各人が得意を持ち寄り、能力をフルに発揮出来る、そんな職場を目指す管理職になりたいと思った。

 そして、管理職として、片道2時間弱の遠距離勤務地への異動となった。私の家庭環境では、単身赴任は到底不可能だった。

新居での生活

 アパートでは、騒がしい子供達が原因で、近隣とトラブルになっていた。戸建てに引っ越したので、騒音に気を使うことは無くなった。

 しかし、言葉の出ない娘がかんしゃくを起こしてかみついたり、笑いながら走り回り、相変わらず言うことを聞かない。上の子の不登校も続いている。妻は疲弊したまま。生活は改善されない。

 私は、通勤負担と新任管理職としての心身疲労。さらに、妻の実家からの頻繁な働きかけにより、気を休めることが出来ない。
 
 自分の心が騒ぎ始めた。せっかく引っ越したのに、私がイライラする分、余計に悪くなっているじゃないか。これ以上、何すればいいのだ。どれだけ人のために尽くせば報われるのだ。

心理学との出会い

 平成31年3月。日々、イライラと過ごしていたある日、ふとYouTube動画が目に留まった。「私たちは、あの早くして旅立った子供たちが、なりたくて夢に見ていた大人の世界、夢の世界に生きているのです。」と話されていた、日本メンタルヘルス協会、衛藤信之先生です。

 そうだ、何をイライラしているのだ。この子達は生きている。私も大人として生きている、十分に幸せじゃないか。私の残りの人生を使って、この子たちが親の庇護なしで生きて行けるように育てよう、と心に誓った。

 昨年3月の事、あと残り4か月に迫っていた。

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