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私は私を手放しました

投稿を始めてちょうど100日。

私の単なる気持ちを、拙い文章で書いているだけのnoteにお付き合いいただき、ありがとうございます。

このnoteは、一年前に旅立った子との思い出を忘れてしまうのが怖くて、背中を押されるように始めました。

更にそれが、見知らぬどなたかのお役に立てるのならと思いました。

嬉しかった事、辛かった事、今頑張っている事。

100日間続けてきて思うのは、毎日は今の連続。
今を感じた瞬間に、それは過去のものとなる。
今の連続が時間なら、今この時の選択が未来そのもの。

今ここに生きる大切さが少しわかりました。


失いたくないと、心から願う過去の記憶がある。
でも、どうやってもリアルな記憶は徐々に薄れていく。

やっぱり寂しい。

それに追いすがるように、歩みが止まってしまうことも何度もあります。手放したくない。ずっと、背負っていたい思い出。

背負っている記憶や思いは、どこかに書き記しておけば何とか手放す事ができる。その心情は、公園のベンチに大事な荷物を置いて、その場を離れる時のものに似ている気がする。

誰かに話を聞いてもらうことで、荷物を見ていてもらう事で、少し安心出来る。荷物が気になるけど、身体は軽くなり動けるようになる。

その荷物の中身は、文章にして言語化する事で、整理する事が出来る。グチャグチャに突っ込んであった大切な物が、すぐに取り出せるようになる。

あの公園のベンチに置いてきたあの時の記憶とは、いつでも再開出来ると分かっている。


ならば、前を向いて頑張れるよね?

うーん、前を向く? 前とか後ろとか横ってなに?
頑張る? 頑張るって、なに?

前向きとか、頑張るって感覚がなくなりました。

あっ、未練とか自分も死にたいとかではなくて、今まで自分を駆り立ててきたパワーが「うらやましい」「何でアイツが」「自分ばっかりがこんな目に」「悔しい」「出来ない自分が嫌だ」「私がやらねば」「こう見られたい」……だったのが吹き飛んでしまい、そんな事どうでも良くなってしまいました。

今、自分を駆り立てる原動力が無い状態なんです。

なので、宙に浮いてふわふわと流れるままに生きています。必要としている人が居れば、そこでお役に立ちたい。その場で不要となれば、さようなら。

執着が生まれない。

怒りやイライラという感情に接する事がずっと苦手でした。幼い頃、厳しく育てられ、顔色を見て常に怒られない様に生きてきたからか、そういう激しい感情を向けられるのが怖いのです。

でも今となっては、怒りをぶつけあっている人を見ると、何故か可哀想になります。あーあの人、思いが伝わらなくて辛いんだろうな、可哀想に。自分の気の持ち様で、相手にはちゃんと伝わるから大丈夫だよ。

良く見られたいって見栄を張る人も同じように感じます。そんなのすぐにバレるし、見栄を張っても何も満たされないのに。やればやるほど虚しさが大きくなるよ。悪く見られる事を恐れなくても大丈夫だよ。

周りには私が無気力に見えるかもしれませんが、そうでもないんです。

例えば会社で改善したい事、部下の子たちが目を輝かせて、ここで自分の力を発揮したいと思える職場にするんだ、という思いや気力には満ちています。

何か、自分の中の世界が変わったのかもしれません。


自分自身、何者なのか良く分からなくなりました。

でも、何者でなくてもいいんじゃないかと思います。

私は、怒りや恐れ、悲しみなどの感情で苦しんでいる人たちの隣にそっと寄り添う。その心の叫びを感じ、言葉を聞き、ジッと目を見て「うん、それでいいよ」って言葉をかけられる人でいられれば、それでいい。

それがいい。

きっとそれは、私のような何者でもない人だからこそできる事だから。

そんな生き方が許される世界であって欲しいな。

私に接してくれた全ての人たち。
ありがとうございました。

心からの感謝の気持ちを。

I love you   because you are you.

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