7月26日。遠くのおやすみなさいと次女のダブルいただきます。

先週、10年以上前にツイッターがきっかけとなってお会いするようになったとても尊敬している方と久々にお会いして、当時のツイッターの話になった。「帰宅しました。」とか「ちょっと買い物に行きます。」とか、「夕食は・・・」とか、そんなツイートが毎日並んでいて、なんだかヴァーチャルな居間のような、平和な感じでしたよね、タイムラインにいる人にちょっとしたきっかけで話しかけたり話しかけられたりも頻繁だったし、だからそんな場所で知り合って実際に会ったりするのも自然な感じだったのかもしれないですね、などなど。

そのころから、とても好きだったこと、というか、タイムラインを開くタイミングで目にすると、どこかあたたかな気持ちになることがあって、それは時差のため、ここが午後から夕方になりかけるくらいの時間に聴こえてくる「おやすみなさい。」だった。それで、自分にとってはそれから少し忙しい時間が、当時はまだ小さかった次女と末っ子の面倒を見たり長女の話を聞いたりしながらの夕食の準備だとかが始まる頃合いで、1日を終える前にまだ一仕事二仕事残っている、という時間だったけれど、「おやすみなさい。」を目にすると、自分も「おやすみなさい。」と書き込んだりしていた。

それから、一時中断したりなんかして、数年前?からまたツイッターに戻って、自分の関心や生活も変わってきて、自分がツイッターに求める(というのかな?)ことも変わってフォローしていたいと思うアカウント(方々)の数も増えて、個人的なおつきあい(?)だけにとどまらなくなって、そこに加えてコロナ禍など最近の時勢の波もあるからだと思うけれど、タイムラインを流れてくる言葉やも自分が書き込むことも、昔が良かったとかではなくて、随分と変わったように思う。なんというか、小さなアカウントだったからもあるんだろうけど、メッセージ的なツイートをほとんど目にすることも、自分が書くこともなかった気がする。自分自身に関して言えば、数年前と比べて確実に乱暴なというか、憤慨している書き込みが多くなったから、自分で昔ののどかな居間から飛び出したというだけなのかもしれないけれど。

それでも、今でも夕方になると、遠くから「おやすみなさい。」という声があの頃と変わらず聴こえてきて、その時間に居合わせれば、自分もやっぱり昔のように「おやすみなさい。」と書いて、そのほんの少しの間、遠くの静かな夜の空を思ったりする、それがとても好き。そんな静かな夜が、これから夕食を作って、食べて、片付けて、などなどやっているうちに、ここにも来るんだなと思うと、行き来が難しくなってしまったことで感傷的になりがちなこともあるのだと思うけれど、遠いのに近いような、そんな気持ちになって、遠くの「おやすみなさい。」に、ありがとうと思ったり、しています。

で、日記はここから。夏休み中も朝型生活をなんとか維持する最後の砦だった私がこのところずるずると夜型に移行しつつあって、毎日元に戻そうと足掻いてみてはいるのだけど、子供たちが起きてくるのが日に日に遅くなってしまっている。今日は結局、朝ごはんどうする?と言い出したのが11時半過ぎだった。パンがなかったから、次女に買ってきてもらったりしているうちに12時半近くになって、そんな時間に軽くパンに何か挟んで食べられても、お昼に何を作るか困るなと思っていたら、末っ子が、「大変じゃなかったら、トルティーリャが食べたい。」と言うから、じゃがいもも卵もあったし、トルティーリャを作った。

食べ始めてから、「あ、ちょっと写真撮ってもいい?」と言って、何枚か写真を撮って、「もう終わったよ。」と言うと、次女がさっき食べる前に言った「いただきます!」をもう一度繰り返したから、皆で笑った。「だって、いつもは食べる前に写真撮るでしょ?だから、写真の後、いただきます!って自動的に言ってしまった。」と言う。「うん、そうだろうと思ったから笑ったんだよ。」と末っ子が言った。

別に料理の仕事をしているわけでもないのに、食べ物が並んだ食卓の写真を頻繁に撮るから、その後の「いただきます!」までくっついて出てくるようになってしまって、でも、そのことをあれこれ言うんじゃなくて、ハハハ、と笑っているところはこの二人の好きなところかもしれない。インスタにあげるとか、ツイッターにあげるとか、そのためのようでいて、もちろんそのためでもあるのだけど、でもそれも、ただただログを取りたい、とっておきたい、そんな気持ちでやっている気がする。ログを取りたい、と思うのは、今こうして毎日のように繰り返しているこの家での家族での日々にいつか終わりが来るとわかっているからだと、自分は知っているけれど、二人は私がインスタやツイッターにあげたいからだと思っているみたいで、その方がいいと思う。

いつか終わりが来る、と言うのは、何か悲劇的に終わる予定や予兆があるとかでなくて、今15歳と12歳の二人は後10年もすれば、他の都市に住んでいたり、そうでなくても家からは出ているかもしれないし、私は10年後くらいには一度長期で東京に帰って両親の側にいたいと思っていて、夫ももう少ししたら義母の様子によってはセルビアとドイツを行ったり来たりの生活になるかもしれない、というくらいのことなのだけど、それでも、だんだんと変わって行って、いつか終わりが来ることは確かなのだから、こんな日があったと振り返ることが、自分だけでなくて一緒にいる家族皆もできるように、記録しておきたいな、と思ってしまう。それなら皆も一緒に写したらいいのかもしれないけれど、インスタの食卓の写真を見返しすと、人が写ってなくて食卓や料理だけの写真からの方がその時の感じがよく思い出せることが多いような気がするし、流石に食事の度に写真を撮られるのは嫌がられるだろうから、このくらいがちょうどいいのかもしれない。

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(朝食だか昼食だかわからない時間に作ったトルティーリャ。時間もボリュームも中途半端で、結果、それぞれ本を読んだり動画を見たりしながら、だらだら食べることに。たまにはこんなのもありだと思った。)

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(夕食はいつもの鮭とアボガドに、チリマヨネーズや揚げ玉、レタス、小海老とネギの天ぷら、胡麻味噌味のソースなんかを用意して、近くにあるフュージョンっぽいお寿司屋さん風の手巻き寿司にしてみた。レタスが夏らしい感じで良かったけれど、中身が賑やかな手巻き寿司は二つ三つでお腹がいっぱいになって、いつもは最後争奪戦になるお寿司ご飯が今日は少し余ってしまった。)

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