長らくのご無沙汰でした。

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パリ13区にアトリエを構える画家の友達を訪ねることにした。教えられた住所をグーグルマップで見たら「徒歩45分」とある。爽やかな天候だし、それなら楽勝、とスニーカーを履いて出発。街を体感するには徒歩が一番。知らない小道や路地を発見する楽しみもあるし、なんといってもコロナ時代の移動手段としては自分の車と双璧の最強である。

しばらく歩くと左手に植物園。鬱蒼と茂る木々の深い緑色を過ぎ、さらに歩を進めると右手に瓦屋根が東洋風の雰囲気を醸し出す不思議な壁。昔住んでいた地区にパゴッドという名のジャポニスム建築の映画館があって、マイナー志向の映画ばかりかけていて面白かったことを思い出し、ああ、きっとその手の何かなんだろう、と思いきや。。。。。

なんと、それはモスクであった。それも「パリ大モスク」と看板には書かれているので、パリで最重要、あるいは最大規模のモスクなのだろう。なるほど塀の先にはアラビア風の門構えがあり、中庭に見えるカフェはモロッコか、あるいはスペインのアンダルシア地方あたりで見かける雰囲気で、ああ、なるほどここはイスラム世界であったと了解。極東と中東、北アフリカとを取り違える自分のアホぶりには呆れ返ったが、いずれにせよ、パリの街並みで、建築物としてそれが確かに「浮く存在」だったことは間違いないし、そのオリエント的な何かに、とっさに自分の心が憩ったこともまた事実だ。

さらに歩き続けると、道がやや上り坂になっている。地図上でも、またメトロはおろか、バスや車の移動でも存外気づかないもの、それが土地の高低。パリ市内での「高台」といえば、モンマルトルの丘くらいしかイメージが浮かばない私は、ほーこんなところにミニ・モンマルトルが、と新しい発見に喜ぶ。月曜の午前中、それもヴァカンスシーズンとて人の姿もまばらだが、カフタンに筒帽子の上背のあるアフリカ系の男性を何人も見かける。庶民的な下町の雰囲気だが、それにしても道路は昔に比べれば随分綺麗になったし、すれ違う人の多くがマスクをしているその割合は町の中心部よりも断然多いことも印象的だ。

まっすぐ歩き続けるとやがて前方に高架が見えてくる。パリの地下鉄は時々地上に顔を出すが、そんな時には地面よりも一段高いところに位置するこうした高架の線路をビューンと駆け抜けていくことが多い。地階の暗闇から急に外に出るから、乗客は一斉に目がちょっと眩しくなる。が、すぐに目が慣れて、突然の眺望にほんの少し、気分が晴れやかになったりもする。

近づいてくる眼前の高架線を眺めながら、東京の丸ノ内線の四ツ谷駅を一瞬思い出し、そして次の瞬間、パリ一年目の最寄駅も、そういえばこんな高架線上にある駅だったな、と30数年前に毎朝、駆け上っていた階段とか、電車が通るゴーッという唸り声や、その振動で下宿の部屋の窓がカタカタと小刻みに震えることなんかをものすごくリアルに思い出した。あの時の住まいも同じ13区だし、この近くだったかもね、ひょっとして、などと思いながらさらに歩を進める。

果たして、その高架線のある道までたどり着いて道路名の標識を見上げたならば、そこにはBoulevard Vincent Auriolとある。

ぶーるゔぁーるゔぁんさんとりおる

BやらVやらリエゾンやらが混在して、フランス語初級の私には、発音が実に難しい通り名だった、まさにその道ではありませんか!

さんゔぁんぶーるゔぁーるゔぁんさんとりおる

魔法のように、スラスラと口をついて出てきたのは、当時住んでいた下宿のフル住所。

ヴァンサントリオル通り120番地。

なんとその高架こそは当時の駅の高架であり、その真ん前に立つ建物こそは120番地。。。。。わー、ここだ、ここだ、ここに住んでたんだ、と120と書かれた眼前の建物を凝視するも、しかしこんなだっけ? とにわかには信じがたい。

というのもその建物、鮮烈なブルーのモザイク模様で全面覆われているのである。1度目にするとしばらく視線を外せないインパクト。ウィーンの建築家/画家、フンデルトヴァッサーの建物を連想させる何かもあるように思った。

まさかこんな建物だったはずはない。もっと地味な、いかにも町外れ的な何の変哲もない箱みたいな建物だったはずだ。けれど、窓の感じとか入口のドアの感じはやはり当時そのままだし、隣の中国雑貨店もそのまま健在。中華鍋やセイロやプラスチックの灯篭などが所狭し並ぶ様子が窓越しに見えるのも、全くそのままだ。

道路の中央を貫く高架の下に降り立ってみた。急にバサバサバサっという凄まじい音と不思議な風に包まれたかと思ったら、鳩の大群が竜巻のように上空から降りてきて地べたに着地。その数、50羽ほどはいただろうか。

ああ、これも昔のままだ。

もちろんあの時の鳩はもう生きてはいないだろう(鳩の寿命について私は何も知らないがきっとそうだろう)。なのに、あの時と同じように、彼らはこの地下鉄の高架下に餌を求めて一斉に舞い降り、ゴミ箱や地べたをつつけるだけつついてはまた一斉に空の上に、高架よりももっと高いところまでバサバサバサッと飛び立っていく。その途中で、人の頭や肩の上に勢いよく糞を落としたりしながら。個体としては同じ鳩でないのに、30年の時を経て、相変わらず同じように群れになって同じ動きを繰り返す鳩って、なんかすごくないか。

青いモザイク模様に覆われた壁をその鳩広場から見上げながら、はて、私の部屋はどこだったのだろうと目をこらす。脳も心もまだ十分すぎるほどスポンジだった頃の自分が、80歳のおばあさんのアパートに借りた小さな部屋はどこだったのだろう。

子供たちが小さかった頃の写真にせよ、過去に住んでいた場所にせよ、昔の何かを目にする時、とりわけ心の準備なしに不意にその状況に出くわす場合、単なる懐かしさというようなものよりももう少し、胸をざわつかせずにおかぬ何かが引き起こされる。不穏や不安に近いもの。胸の深いところで疼く痛みといってもいいかもしれない。

そんなわけで、鳩の糞だらけの高架下にしばし佇んだあと、自己防衛本能から、私は、それ以上、この追憶に深入りしないようにした。つまり、その先の小広場に、当時いつもパンオーレザンを買っていたあのパン屋はまだあるだろうかを確かめることをせず、駅の改札のところまで足を伸ばしてみることもあえてせず、そこを離れ、離れたが最後、後ろも振り向かず、友達のアトリエ目指してまた歩き始めた。

背にした景色をもう一度、脳内で辿りながら、それにしても我ながら、随分とシャビーなところに住んでたもんだなあと思う。けれどシャビーを気にもかけず(というか気づきもせず)、高架と中華雑貨屋と何の特徴もないその辺のパン屋に囲まれて暮らすことが嬉しくてたまらなかった、所有するものも守るべきものもこれといって何もない。そんな身一つの気軽さと自由と若さを今の私は眩しく振り返る。

あとで友達が教えてくれたところによると、120番地のあの壁は、ストリートアートで有名ななんとかというアーチストを13区の区長さんが起用して描かせたものだったのだそう。その区長さん、我が13区をクールなグラフィティで満たそう、という都市計画をお持ちだとかで、なるほど、この13区のあちこちに、おやっと注意を惹かれるグラフィティが随分とあることを帰り道に気がついた。

その帰り道は友達の案内で、行きとは別の道を通ってみた。ルーヴルのピラミッドと並ぶ故ミッテラン大統領のレガシー、ラ・ビブリオテーク(国立図書館。昔は16区にあったラングゾー(東洋語学院)がINALCOと名称を変えて移ってきたというキャンパス。若者たちのスタートアップやカフェなどが軒を連ねるモダンなビル。とても今風にデザインされた文化とビジネスとエコロジーの共存、みたいな街並み。私のシャビーな13区とは似ても似つかぬお洒落で爽やかで文化的な13区がこの30年のご無沙汰の間に誕生していたことに目を見張る。

こっちが年取ったぶん、若返った町、生まれ変わった町の一角がある。そしてその狭間に、計画も期待もしていないところでひょいと向こうからやってくるプルーストのマドレーヌ。昔と変わらぬシャビーな姿で忽然と現れる記憶のトリガー。

何しろ、家族の電話番号を一つも覚えられず、日にちや値段の記憶がひどく下手なこの自分が、120番地を「サンヴァン」というただその音だけを頼りに覚えていたことのなんと奇跡的なことだろうか! 下宿先のアパートの主・マダム・マティヨンがタクシーを電話で呼んだりするときにすらすらと口にした「さんゔぁんぶーるゔぁーるゔぁんさんとりおる」。その響きの美しさにうっとりして、それになるたけ近づこうと一生懸命、声に出して練習した音の連なりが、鳩広場に立った瞬間、ぼやけた頭の奥底から鮮明に飛び出してきたこと。

三週間ほどのパリ滞在で、それはもしかしたら最も印象深い出来事だったかもしれない。



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