ピアノの音
#元気をもらったあの食事
世の中には食事にまつわる話しがたくさんある。その中でも、美味しい食事の話しは楽しい思い出とともにあるように思う。もう40年も前のことが懐かしく思い出される。ある友人夫妻との食事の場面が今でも記憶の中に色あせずに残っているのだ。これから、どういう道を歩んでいったらいいか分からなかったあの頃、いつも僕に楽しく生きる、元気をもらったあの食事を忘れることができない。
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文さんはピアノ講師だ。僕は楽器店に勤めていて、文さんに音楽教室の先生をお願いしている。文さんは音楽教室だけではなく、自宅でも子供達にピアノを教えている。
文さんとの出会いは、文さんが僕の勤めている楽器店のピアノ講師の募集を見て応募してきたのだ。文さんは東京の音大を出て、ご主人の仕事の都合でこの街にやってきた。地方の小さな市なので音大を出ている人などそうはいない。ピアノの先生を探していた僕はとても助かった。
僕の仕事は子供達がどうすれば音楽を楽しむことが出来るのかを子供達の親に分かってもらって、親と子供達が一緒に音楽に親しんでもらう場を提供することである。ピアノに親しんでいれば、将来他の楽器にも興味がわいたりするだろうし、世の中には音があふれているし色々な音についての関心も出てくるだろう。
そのような事をしながら、僕は並行してピアノを習いたい子供達にピアノを売ることも仕事としている。子供達の習い事も多様化しているし、塾も忙しいので以前みたいにピアノの習い事としての優先順位はそう高くない。
僕は時々文さんのマンションを訪ねて、子供達のレッスンの進み具合や発表会や年に数回ある親と子供が参加するイベントの打ち合わせなどを行っている。子供達は年齢も違うし家庭環境も異なればピアノに対する姿勢も様々だ。その辺の事を文さんに尋ねて、どうすれば子供達がピアノに長く興味を持ち続けることができるかを二人で話し合ったりすることにしている。
折角始めた音楽を途中で諦めるのは勿体ない。続けることにより次第にやる気も出てこようし、ピアノの周辺が見えてくれば興味の幅も広がってくる。講師や友人との関係も高まって人を通して吸収することも多くなると思う。僕はそういう場を子供達に提供したいのだ。
文さんは東京で今のご主人と出会ったらしい。文さんのご主人は僕から言わせれば自由人だ。会社勤めはしたことがなく、不定期に知人の紹介の仕事を請け負って、一週間くらいは家に帰らないこともあるようだ。仕事がない時は今度は一週間くらいは家にいてギターを弾いている。一度部屋を見せてもらったことがあるが、マーチンやギブソンのギターが置いてあった。ご主人も音楽が好きでギターを弾きながら曲作りをしている。時にはご主人の曲に文さんがピアノを合せている。
僕が仕事で文さんのマンションを訪ね、ご主人が家にいるときは、三人で話しをすることもあるが、ご主人は大抵は自分の部屋でギターを弾いたり好きな音楽を聴いたりしている。
僕たちの打ち合わせが夕方まで長引いたときなど、文さんが
「良かったら一緒に夕飯食べていかない~。」と僕に声を掛けてくれる。
僕はこのご夫婦と話しをするのが好きだからよく食事のお世話になっている。ご夫婦はお酒が好きで会話も弾む。お酒が好きなので料理もお酒に合うような料理が多い。ご主人に言わせれば、お酒に合うような料理なのでお酒を飲んでしまうということらしい。
文さんのお得意の料理は「なすのみそ炒め」と「鶏肉の炊き込みご飯」なのだ。ご主人が言うように「なすのみそ炒め」はお酒にとっても合うのでどうしても飲みたくなってしまう。ご主人と僕は文さんが料理をしている間ビールを飲み始める。文さんもキッチンで缶ビールの蓋をパチンと開けて、飲みながら料理を創っている。僕たちが飲み始めているので「なすのみそ炒め」を先に手際よく創ってくれる。
キッチンからフライパンのオリーブオイルが温まってくる匂いがしてくる。なすに油が絡まって、さとう、醤油、みりん、味噌だれの香りも美味しそうに広がっていく。テーブルにできあがった料理が置かれると僕たちのお酒も美味しくなる。
文さんは次に、鶏肉を使った炊き込みご飯をこしらえている。人参、こんにゃく、ゴボウ、椎茸、油揚げなどを手早く刻んで、鶏肉を処理して材料の出来上がりだ。出来上がった材料をお米の上に載せて電気釜のスイッチを入れて炊き上がるのを待つ。次は、アサリの吸い物の下ごしらえをしたら僕らの会話に入って三人でお酒を飲み始める。
ご主人がキッチンの食器棚からバカラのグラスを二つ持ってくる。僕とご主人は「なすのみそ炒め」を肴にビールをジャックダニエル変えてグラスを重ねていく。グラスの中で氷がカラン、コロンと音を奏でながら琥珀色の流体が模様を作る。
なすは少し多めの油で炒めてあり、油を吸ってとろとろと口の中で旨味が広がり、ウイスキーの香気にマッチする。
三人でワイワイと音楽のことなどを話している間に「五目炊き込みご飯」が出来上がったようだ。文さんは椅子を立つとキッチンに行って、電気釜の蓋を開ける。
ほっこりした香りが漂ってくる。次に文さんは「アサリの吸い物」を創ってくれている。アサリと昆布出汁の香りが食欲をそそる。僕とご主人はそろそろウイスキーをやめて「五目炊き込みご飯」と「アサリの吸い物」をいただく。ご飯の鶏肉と吸い物のアサリの旨味が口の中で溢れる。
文さんは、まだご飯と吸い物に手を付けないでいる。文さんは結構お酒が好きだから、ご主人がビールを背の高いビヤーグラスに注いでくれている。
文さんは自分が創った「なすのみそ炒め」を美味しそうに口に運んで、ビールをグイと飲む。文さんは小顔で首が長い。文さんを見ていると喉を流れ落ちる液体が想像できる気がする。
僕はお酒や三人での話しですっかり気分もよくなり、お腹も満たされて「そろそろ失礼します。」と言って帰る準備をする。
「いつもお世話になってすみません。」と二人にお礼を言うとご主人が
「又、来てね。」と明るく応えてくれる。ご主人は特に多くを語る方ではないが、語り口にゆったりとした人生を感じてしまう。ご主人の語りを聞いているととても落ちつく。
僕はマンションの建物を出ると心地よい春の夜気に穏やかに包まれて家路に就く。
こういう繰り返しが何度かあったが、僕は仕事の都合で二人のいる街から離れることになった。美味しい食事や会話のひとコマひとコマに思いが充満して、二人との別れはとても辛いものであった。
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今でも時々街中からピアノの音が聞こえてくると、道標もなく不安だったあの頃の楽しく、元気をもらったあの食事のことが思い出される。
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