キレイなノートを取ると成績が上がる、わけではないという話

昔、「東大生のノートはなぜ美しい」的な本が流行りました。たしかに成績上位生のノート、キレイなものも多いですが、全然キレイじゃないものも多いです。僕の現場感覚では、成績中位生のノートもだいたい似たような割合だと思います。成績下位生になってくるとノートがキレイな割合はたしかに減るかな。というかノートを取って残しておくという習慣があまり無いこともよくあります。取らないよりは取ったほうがいいのは間違いないようですが、キレイなノートを書けば上位生になれるかといえば、そうでもない。

そろそろノートの取り方そのものを変えていかないとな、と思っています。ホワイトボードとか黒板に書いたものを書き写すあれ、どうなんだろうかと。とりあえず、経験的にはあんまり記憶力を高める役には立っていない。僕の授業でも、ノート書き写して授業受けた受講生が内容をよく覚えているかといえば、全然そんなことはないという。

まあ、復習に使うという目的はわかるんですが、ホワイトボードに書く→書き写す、というのは無駄な手間のような気がします。僕はあんまり固めていかないんですが、ガチガチに固めた板書案を作る人だと
板書案→ボードに書き写す→ノートに書き写す
みたいになるので、もう板書案コピーして配ったほうが早くないか。

受動的に得た情報はだいたい忘れてしまいます。本を読んで得た情報は80%ぐらい消えますが、話を聞いただけの情報はもっと受動的になるので90%ぐらい消えます。整理して板書されたものをノートに書き写すというのは、まあ、せいぜいこの中間ぐらいじゃないかと思います。話を聞くだけよりはちょっと能動的、ぐらい。

ノートはもっと能動的に取るべきです。言い換えれば、頭を使いながら取るべき。忘れかけた内容を、頭をフル回転させてどうにか思い出しながら書いて思い出して書いて思い出して書く。よくわからない、うまく理解できないことを頭をフル回転させて考えながらノートに書いて考えて書いて考えて書く。そうやってノートに取った内容は、そうそう忘れないでしょう。

キレイに整理された板書を書き写すことに慣れきって、そういうノート以外書こうとしない人もそこそこいますね。わからないと感じると一文字も書かない。ホワイトボードに「正しい答」が書かれるのをひたすら待つ。そうして「正しい答」を書き写してそれを覚えられるかといえば、まあ覚えられないです。

そうなる人が多いのも、ひとつは「キレイなノート」神話のせいじゃないかと思います。キレイなノートを書けば成績が上がる、と(教師側も)思っているからキレイな板書をキレイにノートに書き写す。

本を読んでいないのですが、「東大生のキレイなノート」は要するに、「様々な情報を自分で整理し、思考し、キレイに視覚化する」ということなのではないでしょうか。この中で本当に重要なのは「様々な情報を自分で整理し、思考し」の方で、キレイに視覚化するか汚く(?)視覚化するかは大した問題じゃない。それがどういうわけか「様々な情報を自分で整理し、思考し」の部分が抜け落ちて「キレイに視覚化する」の部分だけが残ってしまったのではないかと。結果的に、最初から整理されたキレイな板書をキレイに書き写すだけという、状況になってしまった。

その方式に慣れきると、自分で能動的にノートが書けない。自分で能動的にノートを書こうとすると、特に最初はうまく整理できないし、キレイな見た目にならない。そして当然間違ったことを書いてしまうかもしれない。だからホワイトボードや黒板に「正解」が書かれるのをひたすら待つ。

ノートは最初から「正しいこと」が書かれていなくてもいいんです。間違ったことが書かれていても、あれこれ記憶を辿って思考を重ねて、少しずつ正解に近付いていければいい。そういうふうに、能動的に頭をフル回転させて自分なりに書き上げたノートは、多少見た目が悪くても、理解度を高め、記憶に残る、最高のノートです。

さ、恐れずどんどんノートを書きましょう。


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