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悩みの構造~私やあなたを苦しめているものの正体~

 人は悩む生き物です。なので、私は悩むこと自体を悪いことだとは思いません。でも、悩みによって心を病むのはとても残念ですし、悩みで人生を丸ごと台無しにするのは勿体無いことです。

 とはいえ現実には、苦悩し、精神をすり減らすような経験をしている人は意外と少なくなかったり。

 私は職業柄、人の内面について学んだり実践したりする機会に恵まれました。その結果、人が何に苦しめられ、悩むのか、それがより明確に見えるようになったので、ひとまず記録しておこうと思い、筆を取りました。

キーワード

「悩む」という構造を書き出すためのキーワードを列記してみます。この文章では以下のキーワードをつないで、悩みとの向き合い方の一例を紹介していきます。

客観的事実、意義づけ、感情、常識、世代間の人間関係、悩み、常識感覚、想像力、誤認、選択

1、「人は感情の生き物」

 章のタイトルに書いたように、人は感情の生き物と言われます。人は自分の身の回りで起こる出来事や他人、果ては自分自身にさえ(大きさの違いはあれ)関わった瞬間に何らかの感情を抱きます。

 例えば、他人が目の前でふざけていて熱いコーヒーをこぼしてしまったところを見た瞬間、「飲み物を持ってふざけるからだ」と呆れる人もいれば、「結構熱そうだけど大丈夫かな?」と心配になる人もいるでしょう。あるいは、「騒がしくなってうるさいな」と軽い不快感を覚えたり、「自分には無関係」と白けた気持ちになる人もいるかもしれません。或いはお風呂に入る時、鏡に映った自分の体を見て、満足したり不満を覚えたりということもあるでしょう。

 これは人間の特性であり、人類として長い歴史を生き抜く中で身につけてきた能力でもあります。ではこのような感情が発生する起点は何かというと、それが事実に対して行われる“意義づけ“なのです。

 誰でもこの世界に存在する客観的事実に対して、無意識に、しかも瞬間的に意義づけを行なっています。そしてその結果に基づいて、感情が動くのです。この反応は少なくともあなたが起きている間中、あらゆる物事に対して自然と起こるので、通常はそういった感情の変化を特別なものとは思いませんし、自分特有のものと考えることもないだろうと思います。

この章のまとめ

① ”客観的事実→意義づけ→感情の変化”という一連の流れは、無意識かつ瞬時に行われる。とても自然に行われるため、普段はこれを特別なものとは思わない。

2、「同じ場所で同じものを見ても、人によって見え方は違う。さらには同じ人でも見るタイミングによって見え方が変わる」

 前章では客観的事実として存在する身の回りの出来事や状況に対して、意義づけを通して感情が動くことを説明しました。

 さて、話を始める前にちょっと想像して頂きたいと思います。あなたは塗り絵をしたことがありますか?もしやったことがなくても、どのようなものであるかはご存知だと思います。では、全く同じ塗り絵用のイラストに「なるべく楽しそうな感じになるように色を塗ってください。」と言う指示があったとしたら、あなたとあなた以外の誰かの色の塗り方は(絵の上手下手は別として)同じでしょうか?

 何が言いたいかというと、人は物事を見たとき、決して同じ感情を抱くわけではないのです。そしてAさんの「楽しそう」とBさんの「楽しそう」は必ずしも同じではないのです。

 塗り絵用のイラストというのは誰が見ても同じもの、つまり“客観的事実“であり、色つけという行為はその事実に対して何らかの印象や意味を付与する、いわば“意義づけ“の行為と言えます。このことは、一つの客観的事実に対して、それを見る人によって異なる意義づけがなされるということをシンプルに示す良い例でしょう。

 そして、程度の違いはあっても人によって意義づけの結果が異なるため、同じ出来事や状況に出会っても、生まれてくる感情は人それぞれ違ったものになります。

 さらに、意義づけの結果は個人の中でも変化します。例として、例えば株式の取引について漠然と「危険なもの」という認識を持っていた人が、株式の取引に関する研修を受けた後では感じる危険度が下がり、「適切に取り組めば資産運用に有効なもの」という認識に変わるようなことがあります。或いは他の例としては、若い頃に「お金なんて必要な分だけあれば良い」という認識を持っていた人が、事故や事件との遭遇経験を積み重ねることによって、徐々に「お金はいざという時のためにたくさん蓄えておかないといけないものだ」と180度認識を変えるといった事もあります。

 「株式の取引」や「お金」といったもの自体は、客観的事実として存在するものです。しかし、前述の2例のように、1人の個人の中でもそれらに対する意義づけの結果は変化することがあり得るのです。

 このように、客観的事実に対する意義づけは1人の人間の中でも変化していくものですから、性格も経験も知識も違う他人同士であれば、当然同じになることの方が稀であることが推察されます。

この章のまとめ

① 一つの客観的事実に対して、人によってそれぞれ異なる意義づけを行う。

3、人は「常識」にとらわれる。常識とは何か?

 前章では客観的事実に対する意義づけは人によって異なるということについて書きました。しかし一方で“常識“という概念があり、これは多くの人が共通して認める基準です。多くの場合、人は客観的事実に対する意義づけを“常識的に“行っていると思っています。他人とのコミュニケーションを取る上で、常識という物差しはとても重要で、これが他人とずれているとコミュニケーション不良に繋がることもあります。

 少し話を戻しましょう。1章で書いたとおり、人は身の周りの客観的事実に対して無意識的かつ瞬間的に意義づけを行っています。意義づけを行なうには、その根拠となる評価基準が必要です。無意識的にせよ、意義づけを行なっているということは、それをするための何らかの基準が存在しているということを意味します。そして客観的事実に対する意義づけが人によって違うということは、評価基準が人によって異なるということの証拠になります(以下、個人が意義付けを行う際に使用する固有の基準を“何らかの基準“と表記します)。そういう意味では多くの人が共通して認める基準である“常識“とは対極にあるようにも見えます。

 では、人が意義づけを行う際に適用される、人によって異なるはずの“何らかの基準“と、多くの人が共通して認める基準であるところの“常識“の関係はどの様になっているのでしょうか?

 ネタバラシをすると、人は自分と自分以外を区別するという能力を、生まれた後の比較的早い段階、具体的には1歳前後に獲得します。そしてその後の発達も手伝って、私たちは自分自身や他人、或いはコミュニティの中に存在する、目に見えない“なんらかの基準“の存在を認識し、互いの中に共通する部分を見出し、それを“常識“として身につけます。

 ところで常識という言葉の定義はやや曖昧であるため、少なくともこの文中では常識を『“何らかの基準“の共通部分』と定義します。

 要するに、人は生まれてから生きていく中で多くの人の考え方、意義づけに知らず知らず触れていて、さらに無意識の中でそれらを取り込んで常識を作っていくのです。しかしこの常識の形成も生きている間ずっと更新されるわけではなく、年齢が進むにつれて徐々に鈍くなり、固定化していきます。

 実はこのことが、この章のタイトルに書いている「常識にとらわれる」ということに繋がっていきます。

 若い時に自分の中で形成された常識が年齢とともに固定化されていく一方で、社会や環境は変化していきます。そして若い世代の中で形成される常識は、地域などによって異なるとはいえ、当然その当時の社会や環境を反映したものになります。つまり、社会や環境の変化が大きい場合には、世代によって常識(と思っているもの)にずれが出てきます。

 さてここで少し振り返って見ますと、常識の定義は『“何らかの基準“の共通部分』でした。ところがこれが世代によって異なるとなれば、これはもはや常識の定義を満たしません。そこでここから先の文章では、このような『ある個人が常識と思っているもの』のことを、“常識感覚“として区別することにします。

 この章のタイトルをもう少し詳しく書くと、「人は(自分の)常識(感覚)にとらわれる」ということになります。とらわれるというのはつまり、現実の中でリアルタイムに形成されていく常識よりも、自分の中の固定化された常識感覚の方を重視してしまう、ということです。では自分の常識感覚を重視するとどのような弊害が出るでしょうか?そしてそれは「悩み」とどのような関係があるのでしょうか?

この章のまとめ

① 常識=比較的幼い〜若い時期に主に無意識の中で形作られる、自分と他人が持つ“何らかの基準“の共通部分

② 『ある個人が常識と思っているもの』のことをここでは“常識感覚“と表現する。人は自分の常識感覚を重視しがちである。

4、世代間で発生する人間関係の悩み。その背景にあるもの

 前章では、人はそれぞれ“なんらかの基準“を持っているが、幼い~若い時期に過ごした環境やコミュニティの中で、他者や集団の持つ“なんらかの基準“との共通部分を無意識に見出し、常識として身につけていくこと、そしてある程度の年齢になると常識は常識感覚として固定化していくが、人はこの常識感覚を重視する傾向があるということについて書きました。

 すこし話が逸れますが、常識というのは絶対的なものではありません。なぜなら環境やコミュニティというのはその人がいる場所や時間で全く異なるからです。そのため、基本的にはコミュニティの範囲が広がるほど常識と言える基準は少なくなっていきます。例えばあなたが異なる国や地域や時代に行ったとして、(言語の問題をクリアしたとしても)あなたの常識は単なる常識感覚となってしまう可能性があるのです。

 話を戻しましょう。

 ある程度の年齢で常識が固定化してくる(常識感覚になっていく)と、次に何が起こるのでしょうか?

 まずお互いの言動が、お互いが認識している“常識“を外れるシーンが出てきます。そしてお互いが認識している常識のずれが認識されないままでいるとお互いの間に溝ができてしまいます。「あの上司はどうも話が通じない」「あいつの言動はどうも気に障る」という具合です。これが世代間での悩みにつながっていきます。例えば上司が部下を「話が通じないダメな奴」と認識すれば評価を下げたり、きつく当たったりするかもしれません。すると部下の方では「上司にパワハラを受けている」という悩みが生じたり、「頑張りが認めてもらえない」と嘆くことになるかもしれません。反対に、「年の離れた部下とどう接したらよいかわからない。指導しようとしたらすぐにパワハラといわれて堪らない。」という悩みを持つ管理職もいたりします。

 お互いの関係が特に縛られたものでない場合は単に疎遠になるだけで済むかもしれません。しかし仕事や地域活動などの兼ね合いで距離が取れない場合、そのような状態で付き合いを続けていくと人間関係で悩まされることになるのです。コミュニティが小さく、一緒に仕事に取り組む時間が長いほどその可能性は上がります。

 もちろん、そのような不幸なケースに陥らないケースもあります。それは例えば次のような人がコミュニティに参加しているケースなどが想定されます。

・常識形成に弾力性がある(固定化していない)人

・人生経験や感受性が豊かであり、コミュニティ内の人たちの常識や常識感覚を言語化できる人

・この文章で述べているような、或いはより広い見識で人間の特性をよく知っている人

常識感覚なのか常識なのかを見分けることができれば、他人との摩擦は少なくなります。

この章のまとめ

①常識は環境・時代・地域などによって変化する

②常識が固定化していく(常識感覚に変わっていく)→世代間でずれが生じる→そのずれが、世代をまたぐ人間関係上の悩みを引き起こす種になる。

③常識感覚なのか常識なのかを見分けることが、他人との摩擦を減らす。

5、世代間に限らず存在する、悩み・苦悩の原因

 悩み、特に苦悩というほどの強い悩みは、人間関係のこと、それと自分自身の心や体のことが大部分を占めているように見えます。なお、自分自身の心や体に対する悩みについてはボリュームの都合上、今回は取り扱わないことにします。

 世代間で人間関係上の悩みが生じる構造について書いた前章では、常識の固定化という、常識のずれが生じる分かりやすい背景がありました。そしてそのずれが人間関係上の悩みを生じさせるということをイメージして頂けたのではないかと思います。

 では同世代の人との間では何が常識のずれを生じさせるのでしょうか?実は前章で既にその答えに触れているのですが、お気づきでしょうか?クエスチョンマークが浮かんだ方はぜひ答えを探してみましょう。

 そう、常識は絶対的なものではなく、時間と場所によって異なるのです。もしかするとこんな経験をしたことがある人もいるかもしれません。

A. 高校を卒業してから生まれ育った土地を離れて生活していたが、なかなか馴染めず人間関係に悩んでいた。そんな中、数年ぶりに旧知の友人達と過ごしたところ、やたらと盛り上がり「やっぱり地元の友達っていいな!」と実感した。

 或いは逆に、

B. 生まれ育った土地を離れて長く別の土地で生活していてすっかりその土地になじんだところ、昔の友達のノリについていけなくなった。

 実はどちらの例も、常識感覚のずれによって生じた事柄(悩み)です。Aの例では生まれ育った土地での常識が新たな土地に移ってもさほど変化しませんでした。そのため、新たな土地ではその環境やコミュニティに所属する人たちとの間で常識感覚のずれが生じ、その摩擦から居心地の悪さを感じていましたが、自分の常識が形成された当時の友人たちとは常識が維持されており、居心地が良いと感じたのです。反対にBの例では、新たな土地でのコミュニティや環境によって常識に変化が生じたために、結果的に過去に過ごした(当時のままの常識感覚を持っている)友人達とは常識感覚にずれが生じてしまいました。

 やや横道に逸れますが、実はBの例に関しては、新しい環境に馴染みつつも旧知の友と盛り上がれる場合も存在します。どういう場合かというと、人としての成長、成熟により、元々持っている“何らかの基準“が拡張され、生まれ育った土地と新しい土地の両方に対してそれぞれ異なる共通部分を認識することができるようになる、つまり場面により常識を使い分けることができるようになった場合です。ちょっと分かりにくいのでイラストで解説すると以下のような感じになります。イラストの②部分が該当の部分です。

 イラストではかなり誇張していますが、実際には“なんらかの基準“が変化したり拡張したりするには劇的な経験や長い時間や学習、或いは資質を要するものと思われます。例えば全く未知の文化圏の外国など、あまりにも常識感覚の違うコミュニティに入ると不適応を起こす可能性は高くなるでしょう。

 また、イラストでは分かりやすくするために生まれ育った土地のコミュニティと新しい土地のコミュニティを重なり合わないように描いていますが、実際には同じ国内などの場合は、このイラストのように2つのコミュニティが全く重なり合わないということは稀だと思われます。

イラストも要改善( ^ω^)・・・

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 話を戻しましょう。常識感覚のずれは場所の変化によっても生じます。さらに別のパターンとして、別々のコミュニティで生まれ育った人同士では共通部分が小さい可能性があります。いわゆる、価値観の相違というものです。別々の土地で生まれ育った夫婦などでは時に「義父母との人間関係がうまくいかない。」「配偶者と子育ての方針が合わない。」「義父母から常識外れだと嫌がらせを受ける。」「子供の配偶者の言動についていけない。」といった悩みが生じたりしています。

この章のまとめ

① 常識感覚のずれは時間の変化(世代の違い)だけでなく、場所の変化によっても引き起こされ、その摩擦が悩みを生み出す原因となる。

② 生まれ育ったコミュニティの違いが結果的に常識と言える範囲を狭め、悩みを引き起こす原因となる。

6、客観的事実としての「存在」=”現実世界”と、自分自身が認識している「存在」=”独自世界”

 さて、ここまで“何らかの基準“について説明し、その共通部分であるはずの“常識“が“常識感覚“となったり、常識感覚のずれによって摩擦が生じ、人間関係の悩みを生むという話を進めてきました。この章では当事者から見たときに、常識のずれが具体的にどのような過程を通じて悩みを生んでいるのか、少し詳しく書いていこうと思います。

 一つの例として、とある男女関係での悩みを取り上げてみましょう。

 Aさん(男性)とBさん(女性)は付き合って2年になる。Aさんの実家は山岳部にあり、そこでは歴史的に男性が林業や鉱山といった現場で一日中働いているような土地柄であったため、女性は自然と家事や子育てを担当するというような役割分担が当たり前となっていた。一方でBさんは都会で生まれ育ち、両親は共働きだった。家事も不公平なく分担されていたが、両親とも家にいないことも多く、そんな時はBさんは近所に住む祖父母に預けられた。

 さて、2人は付き合い始めて1年くらいの間、週に1日デートにいくような関係だった。しかもAさんは経済的な面ではいつもBさんに負担をかけないよう飲食費の支払いや交際費など気前良く出してくれる。そして特に喧嘩もなく、周囲から見ても仲の良いカップルだった。そして付き合い始めて2年目頃からは一人暮らしのAさんの自宅や両親と住んでいるBさんの家で過ごすことも時々あった。一緒に過ごす時間が長くなるにつれて、BさんはAさんの言動について時々気になることがあった。それは2人でAさんの自宅にいる時のこと。2人で夕食を食べた後、Aさんは片付けもせずテレビを見ていた。Bさんは「食器だけでも先に片付けたらいいのに」と思いながら2人分の食器を片付けていると、Aさんから「お茶飲みたい。出してもらってもいい?」と言われた。初めの頃は少し面倒だなと思いながらも、「断るほどの手間でもないから」とAさんの食器を片付け、お茶を出していた。

 しかしその後もAさんは特に悪びれることもなくBさんに家事を頼むことが多く、その度にBさんは何となく心に引っかかるものを感じていた。

 ある時、少し疲れていたBさんはAさんの自宅で食事をした後、「ちょっと今日は疲れてるから、洗い物は置いといていい?」と気軽に尋ねた。するとAさんからは、「疲れてるなら仕方ないね。今日はやっといてあげるよ」との返答が。Bさんはついイラッとして、「自分のことなのに、やっといてあげるって何?いつもやってあげてるのに。」とその日は口論となった。その後もAさんが家事を押し付けるような態度をとるたびに口論する様になり、ある時Aさんから「おれのことはもう好きじゃないってことでしょ。別れよう。」と言われた。BさんはまだAさんのことが好きだったため、この言葉にとてもショックを受けたが、Aさんが怠けているくせに、言うことを聞かないとBさんの愛情が足りないせいにしているということにも腹が立ち、この先うまくやっていく自信が持てなくなった。

 さて、この2人はどこですれ違ってしまったのでしょうか。多くの方はAさんを責めるかも知れませんし、実際のところ、今現在の日本においてはおそらくBさんの支持者が多いと思います。ではその傾向は戦時中やAさんが産まれ育った土地の人たちでも同じでしょうか?

 何が言いたいかというと、女性が家事をするのが当たり前という“常識“を持つコミュニティからの視点では、むしろBさんがやるべきことを怠けているように見える可能性もあるのです。さらにはこの話のように、「家事を固辞するということは男性の方に魅力がない(BさんがAさんを好きじゃない)からだ」という結論に至ることさえあるのです。これは、どちらが正しいかという話ではありません。理解すべきは、“人は基本的に常識感覚を通して出来事や人を見る“のだということです。

 この話に出てくるBさんに関する客観的事実は、例えば「Aさんとお付き合いしている成人女性」というような情報です。しかし女性が家事をするのが当たり前という考え方が根付く土地で育ったAさんの常識感覚を通してみると、Bさんは「Aさんを支え、身の回りの世話をしてくれる女性」という存在として認識されるのです。このことをすんなり受け入れるのは難しい場合があるかもしれません。なぜならこの文章を読んでいるあなたにもあなたの所属するコミュニティに応じた常識や常識感覚があり、それらが女性に対して上記のような認識が存在することを支持しない可能性があるからです。

 とはいえ、1人の人物に関して“客観的事実としての存在“と“ある個人が認識する存在“という両方があることについてはご理解頂けるのではないかと思います。

 実際、常識感覚を含む“何らかの基準“は人に対してだけではなく、身の回りのありとあらゆる事象、出来事などにも(無意識的に)適用されます。例えば、「年齢にかかわらず人は尊重されるべき」という常識(感覚)を持つ人は年功序列の傾向が強い会社に対してネガティブな印象を持つでしょうし、実力のある若い人が上司に食い下がるのを応援する傾向があるかもしれません。人を評価する際には年齢よりも実績を重んじるでしょうし、そういった社会こそが理想的だという話をすんなり受け入れるのではないかと思います。

 つまり、“何らかの基準“がありとあらゆるものに適用されることによって、客観的な事実の集合としての現実世界に対して、同時にその人が認識する固有の世界というものが存在することになります。最初の例に当てはめれば、Aさんが認識する世界の中では、Aさんが将来Bさんと結婚した際には、AさんはBさんを養うことを使命として身を粉にしてしっかり働き、BさんはそんなAさんを支えるべく、家事をするのが当たり前なのです(あくまで、Aさんが認識する世界では、です)。ちなみにAさんがBさんに経済的負担をかけないよう気を遣っていたのは、経済面は男性が支えるものという、Aさん自身の常識感覚に基づいた行動でした。一人一人、“その人自身が認識する世界“(以下、“独自世界“と表記)は当然違います。常識と常識感覚のずれが小さい場合は相手(となる人やコミュニティ)との関係性への悪影響も小さく、反対にずれが大きい程、それは大きくなります。そのため、常識感覚にずれがある人同士のコミュニケーションではお互い理解し難い状況に陥りがちとなり、また相手がコミュニティだった場合は不適応を起こすなど、そのことが悩みの原因になります。

 蛇足ではありますが、AさんとBさん2人の将来について言及するなら、もしAさんかBさんのどちらか、或いは両方がお互いの世界観を認めて妥協点を探らない限り、2人の結婚生活はお互いに対して苦悩することが多いものとなるでしょう。

 さらに人間の想像力は“独自世界“に深みを与え、より強固なものにします。AさんとBさんの例で言えば、Bさんが家事を断ることについて、「おれのことを好きじゃなくなったから」と感じたのは、想像力のなせる業と言えます。このときAさんの脳内では、次の様な思考が働いていたことが推察されます(あくまで、Aさんの常識(感覚)を通した視点です)。

 Bさんが家事を断った→男女で生活している場合、家事は女性が担当するものだ(Aさんの常識による大前提)→自分がBさんの彼氏である以上、それを断るのはおかしい→これは自分の彼女でいることへの拒絶だ(想像力が働くことによる飛躍)→もう自分のことを好きではないのだ

 ・・人間関係って、難しいですね。

 もちろん、想像力自体は人間にとって不可欠の、重要な能力であることは言うまでもありません。

この章のまとめ

① 客観的事実の集合としての“現実世界“に対して、人は無意識的に自らの“何らかの基準“に基づき、“独自世界“を形成する。

② “独自世界“は一人一人違う。常識感覚のずれが大きいほど、“独自世界“は周囲に受け入れられにくいものとなり、悩みの原因となる。

③ 想像力は“独自世界“に深みを与え、より強固なものにする作用をもつ。そのこと自体は意義のあることだが、一方で悩みまでも強化してしまう場合がある。

7、「ない」ものを「ある」と誤認することから苦悩が始まる

 さて、前章では客観的事実の集合である“現実世界“と、ある個人の“何らかの基準“を通してそれを認識することによって生じる“独自世界“という構図をお示ししました。

 ここで若干ややこしい話をします。常識や常識感覚は“何らかの基準“に含まれるため、当然“独自世界“の中にも常識を通して見た部分、常識感覚を通して見た部分、その他の基準を通して見た部分(言うなれば自覚的な独創性の部分)の3つが存在します。これら3つの全体が“独自世界“ということになります。

 では、あなたが人間関係上感じる悩みや苦悩がどこから生まれているかというと、あなたが認識している世界の内、常識感覚を通して見ている部分です。

 常識を通して見ている部分は、現実世界に対して他の人と同じ意義づけをしているわけですから、意見の相違は生まれず、お互いがすんなり受け入れることのできる事柄ということになります。

 次に、常識でも常識感覚でもない“何らかの基準“を通して見ている部分については、自分自身でも独自の意義付けをしていることを認識しているわけですから、そもそも他の人と意義付けが違うことが分かっているので、そのことで他の人の言動を煩わしいと感じることはあっても、強い悩みには繋がりにくいと考えられます。

 しかし常識感覚を通して見ている部分については、自分自身ではそれを常識的で他の人と共通した意義づけをしている部分だと思い込んでいるので、他の人の言動の意図を誤認してしまうわけです。

 前章で出てきたAさんとBさんの例で見てみますと、Aさんにとっては結婚してAさんが経済面を支え、Bさんが家事をする未来というのはまさにAさんの常識感覚を通して見た未来像なのです。しかしBさんはBさんで異なる常識感覚を持っているわけですから、当然そのような未来を描いていません。そうなると、家事を分担して仕事に出ようとするBさんの様子を見て、Aさんは「家事を面倒くさがっている」、「自分の稼ぎをバカにされているのではないか」といった誤解をして、妻とうまくいかないという悩みを抱えることになります。この場合はBさんからみたAさんも当然誤解の対象ですから、お互いが違う前提に立って傷つけあってしまうのです。

 さて、この例ではAさんが確実にあると思っていた未来像は、実は幻想だったということになります。しかし、人間がそれぞれ違った基準を持つ以上、こういった悩みは常に発生してしまいます。

 では、悩みはどのように解消したらよいのでしょうか。

この章のまとめ

① あなたが認識している世界は、常識的な部分とそうでない部分、そして”常識的だと誤解している部分”で構成されている。

② 人間関係上の悩みは”常識的だと誤解している部分”から生まれている。

8、存在の有無を正しく認知すること

  この章のタイトルになっている”存在の有無”とは、コミュニケーションの相手、例えばあなたと私が共通して認識している存在の有無を指しています。この”存在”というのは人物だけではなく、出来事、概念、解釈、未来像などといったありとあらゆる事柄の”存在”を指しています。

  悩みを解消するには、いくつかのステップが必要になります。第一に自分自身の誤解、つまり相手と自分の“独自世界“の中に共通して”ある”と思っていた事柄が実際には相手の独自世界の中には”ない”のだということに気づく必要があります。

 例えば第6章のAさんが今後Bさんとの結婚生活で悩まないようにするためには、「女性は結婚したら家庭を支えるのが基本である」という基準がBさんの認識の中にないことに気づくというのが最初のステップになります。

 自分自身の誤解に気づいたら、次はどうしたらよいでしょうか?よくある失敗例として、相手に自分の正当性を伝える努力をする、というものがあります。自分の基準を相手も持つことができれば問題は解決する、という発想です。しかし残念ながら他人の基準、ひいては世界観を変えるのは一部とはいえ容易ではありません。基本的には外からの力で変えられるものではないと思っておくのが無難だろうと思います。

 そして自分の基準を相手に持たせようとする行為の根底には、まだ自分の常識”感覚”の部分を、”常識”であると誤解している証拠でもあります。

 常識感覚というのは、実際には相手とは共通しない部分ですから、無いものは無いということを自覚しなくてはいけません。

 しかし、実はこれは文章で書くほど簡単ではありません。なぜなら人は自分で思っている以上に常識感覚に従って物事を見ながら生きているからです。しかし自分と相手の独自世界に共通して“ある“、つまりは常識だと思っていた事柄が、実際は“ない“のだと自覚することは、悩みを解消するための第二のステップである、悩みを選択に変えるという試みに繋がります。

この章のまとめ

・他人の基準、ひいては独自世界を変えるのは一部とはいえ容易ではない。

・人は自分で思っている以上に常識感覚に従って生きている。

・悩みを解消するために必要なステップは第一に自分の独自世界にあって相手の独自世界にないもの、或いはその逆の事柄を明確に認識すること。

9、「悩み」と「選択」

 前章では悩みを解消するための第一のステップとして、自分と相手の独自世界の中に“ある“ものと“ない“ものに気づくことについて書きました。この章では、その具体的な方法について書いていこうと思います。

 本題に入る前に前章の内容をイメージ図にしたものをお示しします。

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 悩みを解消するために必要な第一のステップは自分の独自世界にあって相手の独自世界にないもの、或いはその逆の事柄を明確に認識することと書きました。これは言い換えれば、お互いの常識感覚を把握するということと同じです。

 方法は一つではありませんが、ここでは比較的簡単に実践できることについて紹介したいと思います。その方法とは、1. まっさらな状態で相手と向き合い、2. 相手の言動にしっかりと目を向け、耳を傾けることです。この場合の”相手”とは、あなたを悩ませている相手のことを指します。

 まっさらな状態とは、相手が自分とは違う基準(ただし、相手は常識だと思っている)である“常識感覚“を持っているということを前提として向き合うということです。そして相手の言動にしっかりと目を向け、耳を傾けるというのは、相手が持っている(自分とは異なる)常識感覚が、具体的にどのような基準なのかを、客観的事実とそれを受けた相手の言動から推測するのです。

 前章で他人の基準を変えるのは難しいということを書きました。裏を返せば、相手の基準を把握すればそれは長期的に役に立つということでもあります。相手の基準を把握するために最も邪魔になるのが、自分自身の常識感覚です。世の中に存在する客観的事実としての出来事や状況に対して、あなたが反応するのと同じように相手も反応します。相手の反応の仕方が予想外であったり、あなたの癇に障ることがあったりするのは、その部分であなたの常識感覚と相手の常識感覚の違いを検出しているに過ぎません。悩みを解消したいのであれば、感情に振り回されるよりも、感情を検出のサインとして指標化し、冷静な目で相手が持っている基準である常識感覚を把握することに時間を使うほうがお得です。

 ここでも第6章のAさんとBさんの例で説明していこうと思います。まずは二人の間で起こった出来事の、客観的事実の部分を見ていきましょう。

ⅰ) Bさんが「ちょっと今日は疲れてるから、洗い物は置いといていい?」とAさんにに尋ねた。

ⅱ) Aは、「疲れてるなら仕方ないね。今日はやっといてあげるよ」と返答した。

ⅲ) Bさんは「自分のことなのに、やっといてあげるって何?いつもやってあげてるのに。」と言い、口論となった。

ⅳ) その後もAさんはたびたびBさんに家事をさせようとした。

ⅴ) その度に口論となり、ある時AさんはBさんに「おれのことはもう好きじゃないってことでしょ。別れよう。」と言った。

ⅵ) Aさんは家事をせず、Bさんが家事をしないと「愛情が足りない」という態度をとることに対してBさんは腹を立てた。

 若干感情に関する記述を残していますが、客観的事実としてはこのような流れです。では、AさんとBさんがそれぞれこれらの事実にどのような意義付けをしたのかについて考えてみましょう。

 家事に関するAさんとBさんの常識感覚について整理しておきますと、Aさんは育った田舎での男性観、女性観に基づき、男性は外で身を粉にして働いて家計を支え、女性は家事と育児で家庭やコミュニティに貢献するもの、という常識感覚を持っています。一方Bさんは両親共働きで祖父母のところで可愛がられることも多く、家計も家事も育児も分担しながら平等な生活をするのが理想的だと思っています。またそこに祖父母など世代を超えた繋がりができることについても肯定的にとらえています。

ⅰ)に対して

Aさん→基本的に家事はBさんの担当だが、今日は疲れているから自分にもやってほしいと思っているのだな。

Bさん→疲れている時くらい、Aさんが自分でするのが当たり前。

ⅱ)に対して

Aさん→Bさんのやるべきことをやってあげる自分って、優しい彼氏。

Bさん→なんで上から目線でいわれなくちゃいけないの?私をなんだと思ってるの?

ⅲ)に対して

Aさん→どうしてBさんが怒るのか、理解できない。疲れてるのが偉いのか?

Bさん→文句の一つでも言わないとやってられない。私はあなたの家政婦さんじゃない。

ⅳ)に対して

Aさん→将来結婚したら家事をするのはBさんなんだから、やってもらっていいよね。自分はお金の面ではいつも配慮してるし。

Bさん→この人は何を考えてるのか?この人のこと、嫌いになりそう。

ⅴ)、ⅵ)に対して

Aさん→担当の役割を拒否するってことは、自分に対する拒絶?

Bさん→どうしてそんなに意固地になってるんだろう?なんで好きじゃないなんてことになるの?Aさんが家事をさぼっているだけなのに、信じられない!

 いかがでしょうか?双方の常識感覚の違いが、どのようにコミュニケーション上の悩みやトラブルを引き起こすのかの一端が見えたのではないでしょうか?Aさんにしろ、Bさんにしろ、どちらも相手の常識感覚が自分の常識感覚とどういった部分で、どのような違いを持っているのかについて検討することができれば、ここまでこじれなかったかもしれません。

 あなたがAさんの立場かBさんの立場かは、悩みを解消する方法とあまり関係がありません。なぜなら、どちらの立場で考えるにしてもやることは同じだからです。第一に、まっさらな状態で相手と向き合います。具体的にどうするのかというと、仮にBさん側の視点で見てみますと、前述のⅱ)『Aは、「疲れてるなら仕方ないね。今日はやっといてあげるよ」との返答した。』の部分で、Bさんは「おや?」と思ったはずです。なぜなら、Bさんの常識感覚では分担が前提なので、まるで家事がBさんの仕事であるかのような、「やっといてあげるよ」という発言は奇妙に聞こえるはずだからです。このような時、この事例のようにBさんが自分の常識感覚に従ってこの発言に意義付けを行うと、ⅱ)の出来事は「AさんがBさんに仕事を押し付けている」という意味を持ってしまいますから、当然喧嘩になります。

 しかし、一旦自分自身の意義付けを保留にして、「今日はやっといてあげるよ」という発言について耳を傾け、その直前の客観的事実である、ⅰ)『Bさんが「ちょっと今日は疲れてるから、洗い物は置いといていい?」とAさんにに尋ねた。』という出来事に対して、どのような意義付けを行うとそのような発言になるのかを考えてみましょう。

 Bさんの常識感覚からすると、「やっておいてあげる」とはならないはずなのです。しかし、その様な発言から逆算すると、「そもそも家事はBさんがすべきことである」という考えが背景に透けて見えてきます。

 しかも、悪びれずにそのような発言がでるということは、Aさんには少なくとも悪意はないと考えられます。

 とはいえ、BさんとしてはBさんの常識感覚で捉えてしまいますから、腹が立つということ自体はあると思います。

 さて、相手と自分の常識感覚の違いの部分を検討する方法について説明しましたが、当然1回の出来事で相手の常識感覚や互いの共通部分を把握することは困難です。そのため、長い時間をかけて徐々に相手を理解していくということが必要です。一方で、自分の常識感覚と合わない人やコミュニティがある以上、自分が関わる全ての人に対してこのようなスタンスで関わることは困難です。

 現実的には仕事上の関係や単なる知り合いくらいの距離間の相手であれば、「きっと自分とは違う常識感覚からくる言動なんだな」と理解するだけでも良いと思います。それだけでも悩み自体はかなり楽になります。大切なのは、“相手が相手の常識感覚に沿って意義付けした結果“というものの存在に気づくことです。悩んだ時は客観的事実に立ち返り、「自分はこのように捉えた。でも相手は違うとらえ方をしたのだろう。」という理解をすることに慣れていきましょう。

 自分と相手の常識感覚の違いや共通部分(常識)といえる部分についてある程度の把握ができたら、次のステップに進みます。それは、悩みを選択に変える、ということです。

 自分と相手の常識感覚の違いや共通部分に気づいたら悩みが消えるかというと、必ずしもそうとは限りません。最終的に発生している客観的事実が、あなたの常識感覚をもって意義付けしたときにネガティブなものであるならば、悩みは悩みのまま残るからです。

 しかし、相手と自分の違いの把握に成功している場合、悩みの内容は“出来事そのもの“や“相手とのすれ違い“、或いは“感情を掻き乱されるもの“ではなく、相手の常識感覚に合わせていけるのか?自分の常識感覚と相手の常識感覚の間に妥協点を見出すことができるのか?或いは、常識感覚が大きく違う相手には見切りをつけて、よりよい出会いを求めるべきか?といった“決断と選択が必要な問題“に変わっているはずです。そして、その選択を自分自身の意思決定で行うことが、悩みを解消することにつながります。

この章のまとめ

① 1. まっさらな状態で相手と向き合い、2. 相手の言動にしっかりと目を向け、耳を傾けることが相手の常識感覚を把握するための一つの方法。

② 相手と自分の意義づけの違い、つまり常識感覚の違いが理解できると、悩みの中心が“出来事、すれ違い、或いは感情を掻き乱さすもの“から“決断と選択の対象“になる。

10、上手に「悩む」ということ

 さて、この文章で最も伝えたかったことは以下の点です。

・人はそもそも常識感覚の大部分を無意識に“常識“と思って過ごしています。

・“常識“と思っていたものが、相手となる個人やコミュニティに対して単なる"常識感覚“だった時、そのことに気づかないと誤解や摩擦が生じ、これが人間関係上の悩みになります。

・悩みを解消するにはまず、客観的事実まで立ち返り、その客観的事実に対して相手がどのような意義づけを行なったのかを、その言動や反応をじっくり観察することによって把握することが重要です。

・相手がどの様な常識感覚を持っているのかが把握できさえすれば、それまで感情を掻き乱されるだけの体験であったもの、つまり“悩み“が、特定の常識感覚を持った相手との今後の付き合い方を決める上での“覚悟と選択“の問題に変化します。

・この時、他人の常識感覚は自分がどれだけ自分の常識感覚の正しさを主張したとしても変化するものではないということを忘れないようにしましょう。なぜならそれは、あなたが他人の説明一つで簡単に自分の常識感覚を変えられないのと同じことだからです。

・悩みはそこに感情を伴うと辛いものになります。第1章で書いたように、感情は自分のもつ基準に従って無意識かつ瞬間的に現れますので、ネガティブな感情が出ること自体を恐れてはいけません。生きていれば瞬間的にはネガティブになることも多々あります。しかし大事なのは、その感情が生まれる背景を知る、つまりは“そもそも相手と自分が異なる基準を共通の基準だと誤解しあって生きているのだ“という事実を真に理解することによって、瞬間的に生まれたネガティブな感情を、誤解や曲解によって増幅したり延長したりしないことだと思います。

・記事としては悩みを解消する方法について書いてきましたが、実は相手と自分の違いを理解したとして、覚悟や選択も楽ではありません。それ自体が悩みとなる場合もあるでしょう。しかし単に感情をかき乱されるのとは違い、覚悟や選択は主体性を持った経験としてあなたの中に積み上がっていきます。そういう意味では、正確には悩みを解消するというよりは、“悩み“を、単にあなたの心を傷づけものから、あなたの成長に繋がるものに変えていく方法と書いたほうが誠実だったかもしれません。

 決して楽ではない人生ですが、悩んだ分だけ成長を実感できるような、上手な悩み方をしていけるよう応援しています。

*今回の記事では意図的に、悩み全般ではなく人間関係上の悩みに限定した書き方で進めてきました。しかし実はその他の悩みにも応用できます。その話はもしまた機会があれば。

*この記事は著者が書籍や文献から学んだ学術的知見をベースにしているものの、参考文献を付けておりません。主としてアーロン・ベック先生、ジュディス・ベック先生の認知モデルをベースに、著者の解釈と応用例などをなるべく分かりやすくお伝えしたいと思って書いて見ました。もし分かりにくい部分やもっと知りたい部分、具体的な悩み事の例などがあれば気軽にコメント頂ければ、可能な限りお応えしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

 


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