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私は何者になるのか?

 先生は、ばっと立ち上がって、少し遠くにあった棚から本を引っこ抜いて、私に見せた。本を開いて、その中にいたある人の名前を指さし、この人が私の先生だと言わんばかりの顔をした。その本は、学生の共同研究室にも置いてあったものだった。

 その先生は、私が勉強している分野ではとても有名な先生の教え子だった。

「先生からは、たくさんのことを教えてもらった。」

「自分の研究室の先生には、君の研究はよくわからないとまで言われたから、僕は自らその先生のところへばかり行って、論文の添削までしてもらったんだ。返ってきた論文は、びっしり赤色で直しが入っていて、頭が上がらなかった。」

その表情は、授業で垣間見る先生の生き生きした表情と似たそれだった。

他にもひとしきり話した後、先生は私に、
「今度、学会があるから。それに参加してみなさい。研究がなんたるものかというのがそれでなんとなくわかればよいでしょう。」

最後には、
「若いうちに勉強できるならした方がいい。他の学生は、親に迷惑かけられないのでって言う子が少なからずいたけど。僕は、迷惑かければいいじゃんって思うんだよね。だって、やりたいんでしょ。」

その日は、この話で終わった。


大体1週間に1回。ふりかえりの時間と称して障害がある子どもと自分との係りの映像記録を先生と一緒に見る時間を頂いている。
私は、その時間が初め苦痛だった。(今も辛いことは多い)
1番は、動画に映る自分を見続けるのがかなり苦しいということ。
自分の行動を一つ一つ止めて、なぜこのようにしたのかということを考える。相手がなぜこのような行動をしたのかということも常にセットで考える。どうするべきだったかということを先生は問い詰めてくるというようなことはないが、とても穏やかながらにも、厳しい目で指導してくださる。
有意義な時間であることにかわりはないのに、苦しいという内容の内訳は、

動画を見ているだけで自分の行動が全て自分に跳ね返ってくるということだ。

次の出方を迷っている自分
考えなしに行動している自分
子どもとのやりとりを楽しんでいる自分
どうしたらいいものかと困っている自分

全てを自分で受け止めなければいけない、この時間は、私にとって密室の天井が上から少しずつ下がってくる感覚に近いものだった。

一方で、先生は楽しそうなのである。

私はその先生の様子に困惑し、尊敬しながらも、一緒に考えてくれる、これだけで救われた気持ちになる。だから、毎回行きたくないと本気で思いながらも、結局先生と話した後は、話して良かった。次はこの準備が必要だなとか、自分の至らなかったところを見つけられて良かった、とか。そう思う。

障害がある人と、一緒に勉強したり遊んだり、買い物に行ったりする。ただのボランティア感覚から始まったこの係りは、私にある疑問をぶつけることになる。

私は、何者なのか。そして、何者になるのか。

彼らの存在を知ってしまったということ。私は、ボランティア感覚でこのまま係わり続けるのはできない。もっと、お互いがわかりあうためにはどうしたらいいのか、どのようにかかわりあって行くことが必要なのか、どんな現状があって、それを変えていくことでみんなが幸せになるのか。考えなければいけない使命感のようなものを感じ始めた。自分の人生を賭けて彼らの置かれている現状と対峙していくことの価値が彼らとの係わりにはあると感じた。

けれども、将来の自分を想像することは当たり前だけど簡単にはできなくて、どうしたら良いのか正直今の自分はわからない。

もういっそそれなら、研究者になってしまえば、自分の取り組みたい問題に向き合いながら生きていけるのではないかとも思い、先生に進学したいという話を相談してみた。

結局、答えは出なかったし、人に答えを求めている自分がいたことに気づいて、恥ずかしくなった。そんなにすぐ答えが出てしまったら逆にどうしたらいいのかわからなくなりそうでもある。

とんだ甘えた奴だけど、
みんなが幸せになる方法を、考えて実現できる人になりたい。
こんな理由で、学問の道に行きたいなんて言ってしまうのは、だめかなあ
これができたら、私は超かっこいいと思うし、それが、研究者ができることなんじゃないかなって思う。


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