takatsugifuliu

剣道大好きマンです。剣道ライクマンと名乗ったこともあります。体のあちこちは痛いのですが、心はどこも痛くなく、湧く湧くやる気満々です。楽しみましょう共に

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剣道大好きマンです。剣道ライクマンと名乗ったこともあります。体のあちこちは痛いのですが、心はどこも痛くなく、湧く湧くやる気満々です。楽しみましょう共に

最近の記事

スウ・ドン剣法免許皆伝71殺意の毒を持たない剣

「来いよ」の一歩からの技を実践していて、以前から好きであった柳生新陰流の言葉を思い出した。「殺意の毒を持ち得ない豪剣」「動ける可能性が迫り来る怖さ」の二つである。言葉の教えの概要は次の通り。『剣道の根本は勇である。目の前の相手を怖れず、そんな事考える心のスイッチは切り、争闘の情も去り、身構えず、身も退かず、自分を越えた何かに身を委ね、刀に依らず、刀を恐れず、力を入れず、肩緩め肘緩め、五指リラックスし、対立を消して入り込み、相手に反発をせず、相手に同化する心持ちで、掌根押し出す

    • スウ・ドン剣法免許皆伝70「来いよ」の一歩に驚きを

      柱の三本目の技の所で「打たせる手立て」を考えて実践した中で「来いよ」の一歩に驚いている。打たれたくないと引っ込めるのでなく、そんなに打ちたいのかい、そんなら打ってごらんと面を差し出す、小手を差し出す、一足一刀の間合いをあげるからチャンスだよ、ホラ打って来いよと中へ一歩入る。「来いよ」と入って「来ないのかーい」と、来るを擦りあげ抜き払いして打つ。「出て来いやあ」の心を込めて「Yua」と声を出しながら、身はやんわりと乗り出して、相手の打ちを引き出すという感じだ。ちなみに、「Ya-

      • スウ・ドン剣法免許皆伝69アプローチの三本柱

        ある日の朝のレム睡眠の脳内に、有無を言わせずという言葉が浮かんできて目が覚めた。それから色々考えて行ったら、技が三つの系統に分けられる気がして来た。柱の一本目の技は「有無言わず有無を言わせずアプローチ」柱の二本目は「有無を言わせるアプローチ」柱の三本目は「有無の有与えるアプローチ」初心の内は柱の一本目、ウームどうしようチャンス有るかな無いかなと心配もせず考えもせず、相手にも考える間も与えず、自分から一拍子に仕掛けて飛び込んで行く技。まさに懸かり稽古の心で取り組めるものである。

        • スウ・ドン剣法免許皆伝68攻撃的を深読み

          攻撃的とはどういう事かもう少し深く考えてみよう。ゴルフの世界にはアプローチという言葉がある。目的のグリーン上最後のカップインのしやすい距離に近づける一打をアプローチ「寄せ」という。もちろんそのまま入ればグッジョブではあるが。剣道の世界の「攻め」もアプローチである。簡単に打てる間合いいわゆる「一足一刀の間合い」に近づく、体を寄せる、迫って行く。その事から、初心者の内は入って打てという「二足一刀の面打ち」の練習もある。でも試合では単純にその打ち方では通用しない場合も多い。二人の技

          スウ・ドン剣法免許皆伝67攻撃的牛若練

          今年の大河ドラマの源義経を、菅田将暉が無邪気でありながら残忍な一面を持つ新たな義経像を描いているからという訳ではないが、だいぶ前から考えていたことである。牛若は弁慶の攻撃をただescapedefenceをやり続けただけだけど、現代剣道では防御の後を打たないと競技としての面白味が湧いてこない。防御とは相手攻撃のコントロールでもありディフェンスでもある。コントロールとは、支配・統制・抑制・操縦、支配とは、他のものを自分の思う通りに規制する事である。牛若は何をそんなにムキになるのと

          スウ・ドン剣法免許皆伝67攻撃的牛若練

          スウ・ドン剣法免許皆伝66弁慶牛若練

          今年のNHK大河ドラマは鎌倉殿の13人だ。当然源義経も出てくる。弁慶と牛若丸の出会いの場面は剣道を考える時の参考になる。京の五条の橋の上、僧兵武蔵坊弁慶は、武士の刀を奪わんと待ち構えていた。そこに通りかかった牛若丸(源義経の幼名)に、長いなぎなた振りかざし斬り掛かって行った。牛若は弁慶の攻撃をヒラリヒラリと身を躱し橋の欄干飛び乗った、のは話の盛りすぎであろうが、とにかくことごとく攻撃を躱していった。弁慶は疲れ果て、「参りました」と、源義経の家来になりましたとさの話である。考え

          スウ・ドン剣法免許皆伝66弁慶牛若練

          スウ・ドン剣法免許皆伝65

          審査用剣道という言葉はないが、若い頃「君は昇段審査みたいな試合をするね」と言われた事が ある。褒め言葉なのか逆なのか分からない。稽古は試合の如く、試合は稽古の如くという言葉はある。審査用剣道という言葉は、自分が初心者指導用に考えた言葉である。審査は試合ではない。一本きれいに打たれても終わらない。だから、打たれる事を恐れる必要はないという事だ。防御をそれ程考えなくてもいいという事でもある。身につけた技術を素直に前に出して行けばいいだけだ。それこそ、元立ちに向かって打ち込み懸か

          スウ・ドン剣法免許皆伝65

          スウ・ドン剣法免許皆伝64攻撃は一撃

          映画のように重い刀でチャンチャンバラバラ激しく打ち合うなんて、しかも力一杯握りしめてずっとずっと何度も何度も振り回すなんて、考えただけでも疲れる。攻撃は最大の防御とばかりは軽い竹刀だから出来る。戦いは叩き合いだから仕方ないだろうけど。刀の世界は一撃必殺。確実に当たれば一撃で終わり。竹刀ではそうならないけど。防具剣道で小さく速く打つ面は刀ではやりにくい。だから刀で戦う場面は八相や上段に構えている事が多い。その方が楽で自然の理だからだ。それは現代剣道にも残っている。対上段はやりに

          スウ・ドン剣法免許皆伝64攻撃は一撃

          スウ・ドン剣法免許皆伝63東京剣道祭の反省を踏まえて

          八段審査をイメージして、大きな声を出して我慢の剣道をしようと取り組んだ。。結果引き分けだった。大きな誤算があった。剣道祭は試合であったということだ。審査なら必ずいつか出てくるから我慢比べが生きてくるけど、試合は打たれたくないから、簡単には誘いに乗ってこないし、相手も出鼻を待ってるので、一本になる場面が中々出てこなかった。突っ張ることが男の勲章と歌の文句にあるように、戦う為の突っ張りが足りなかった。というか、そういうことをやめようとしている最近の立ち合い稽古だった。しかし試合は

          スウ・ドン剣法免許皆伝63東京剣道祭の反省を踏まえて

          スウ・ドン剣法免許皆伝61袈裟斬り半次郎の強さ

          現代剣道に直接役立つ物ではないかも知れないが、コロナ禍で稽古の出来ない朝の夢の中で考えた事を、モーニングコーヒー飲みながら書いておこう。幕末の世に新選組の近藤勇に恐れられた中村半次郎人呼んで人斬り半次郎、後の陸軍少将桐野利秋は間違いなく袈裟切りだっただろう。示現流の稽古はまさに袈裟切りだ。新ためて考えてみると斜めに斬る袈裟切りは刀の理法に一番理想的と言える。大上段に構えていると突きが怖いとも言えるが、八相に構えていると対応出来そうだ。また、真すぐに面を斬ると空振りした時に地面

          スウ・ドン剣法免許皆伝61袈裟斬り半次郎の強さ