茶の湯と数寄屋建築の謎

数寄屋建築は世界でも類型が皆無である。
茶の湯は安土桃山時代の桃山時代の慶長の時代に発生する。
この時代は未だキリスト教は禁止されていない。

日本には古い時代に景教のネトリウス教が伝来しており
この教えは日本人に無形ながら深く浸透していた。

景教の原始キリスト教と言うべき教えには、
博愛や友愛の精神もあり信徒であった光明皇后の施楽院は有名です。

宗教の教えを体得する早道は、
単に宣教師の説教を一方的に聞くのではなく
自分のものとして深く理解する為には「瞑想」が早道です。

その点、茶室の空間は最適なのです。
茶室の入り口は、「躙り口」となっていて、
わざと高さを低くして入室し辛くしています。

これは後のキリシタン禁止令が出てからは有効に機能し出します。
取締りの役人が来ても、かがみ込んで入るしか無く無防備な上、
狭い部屋では長い刀は却って相手に反撃の隙を与えて仕舞う為、
茶室の造りは防御上も有効なのです。

茶室というのも表向きの話で、
本来は信仰上の「瞑想室」であったと思います。

躙り口を通して観る庭園の石灯籠の下部には
ダビデの星が気付かれないように刻印されています。
ユダヤの栄華はソロモン、ダビデ、ネブカデネザルの3王の時代でした。

景教徒はアッシリア語を話し、イエスキリストもアッシリア語を話していたそうです。
日本にやって来た景教の李密医は宣教師であり医師でもありました。
アッシリア語はユダヤのヘブル語の兄弟語で、                      ユダヤの共通語に近かかったのです。
依って、景教とキリスト教とアッシリアとユダヤとの関連性も納得できます。

信長は高野山の仏教徒を5000人も虐殺しました。
宗教が政治に口を出したり権力を持つ事に嫌悪感を持っていた様です。
源頼朝も権力を手中にした時、京都に居る天皇との関係に一定の距離感を置き、
政権運営は敢えて東国である鎌倉で行い、
従属関係を嫌い、天皇から官位を貰う事を避けていました。

処が、義経は京都での天皇の守護職を勤めている際に、
度重なる殊勲の為に天皇家からの官位を貰う事で、
官位の上での頼朝と義経の差が無くなってしまいました。

それで頼朝はかなり義経を疎ましく感じてしまいます。
それに、義経の戦術そのものが奇想天外であり、武士道精神も無かったので
頼朝からすると何をしでかすか判らない弟であり、
段々に存在そのものを疎ましく感じたのです。

其処に、頼朝が義経の見張り番として付けていた梶原と言う
平家の落人であった軍師が、故意に義経の悪評を頼朝に告げ口した為に、
最終的に義経は頼朝に撃たれてしまいます。

為政者と言うものは、常に宗教を警戒しています。
日本に於いては仏教は後発のものなので度々、
迫害の対象になりました。

神道や天皇家が迫害されると言う事は滅多にありませんでした。
それだけ、日本人の生活信条の中に深く浸透していた為なのでしょう。

処が、フランチェスコ・ザビエル等の宣教師の役目は、
スペイン国王の植民地政策の先達的役割なので、
必ず、時の政権に深く食い込み政治的活動をしました。
それが行き過ぎると迫害されました。
宣教師を直接迫害すれば国家間の戦争になるので、
被害者は何時も順良な信徒の国民であり民衆でした。

茶室の発展はそう言った民衆の深い心情があった為と思われます。
日本では明治初頭迄、キリシタン迫害は継続してましたが、
その頃、バチカンから使者が日本のキリスト教の信者の現状を視察に来ました。
日本の何処に行ってもキリスト教を表立って信仰している様子は見当たらず、
派遣された宣教師はかなり落胆しつつ、東北の寒村に辿り着きます。
其処で、行き交う人々にキリスト教の挨拶を何度も送りますが
全く無反応の日々が続きます。

其処で、もう諦めてバチカンに帰国しようと思い始めた頃、
ある日の夕方になって、一人の老人が現れ「貴方は兄弟ですか?」
と聞いて来たのでびっくりします。

キリスト教に於いては四海同胞的な隣人愛が尊ばれ、
隣人は全て兄弟姉妹で在るという教義が中心にあります。

次の日の夕方には、もっと多くの村人が同じように問い掛けて帰って行きました。
そして、等々、数日後には村中の村人が挙ってその宣教師の元に遣って来て、
「兄弟よ、良く日本に来てくれました」と、口々に声を掛けてくれたのです。
その宣教師は涙にむせびました。

やはり主の教えは迫害なんかには負けないし、
心の教えは、眼に見えないだけに、
例え教会がなくても充分浸透していたのだと納得します。

聖書では信者はエレクシオ(教会と訳しているが、本来は集いの意味)
に集まる事を求めています。

私が思うに、この村人らの心の底に受け継がれてきた信仰こそが景教、
つまり、原始キリスト教で在ったのではと思います。

日本の仏教も百済から禅譲された大乗仏教と、                      民間に伝わった小乗仏教があり、
政権の民心維持に利用されたのが大乗仏教、                      つまり巨大な仏閣を持つ伽藍仏教でした。

それと同じく、キリスト教もザビエルが伝えたキリスト教は                ローマンカトリックであり、大航海時代の植民地政策下の                権威主義に基づくキリスト教であり、
民衆が求めていた本来のキリスト教ともちょっと違う気がします。

だから、江戸時代に日本に来た宣教師は、
日本には本来のキリスト教は根付かないと嘆いたそうです。
明治の頃のクリスチャン新島 襄も、
日本のキリスト教は「継ぎ木」としてしか育たないと看破しています。

 ちょっと大きく脱線しましたが、吉田織部を筆頭に、                  桃山時代の慶長の中頃から、大名や寺院の依頼で茶室や築庭が始まり、     小堀遠州、千 利休、佐久間将監、金森宗和、織田有楽、瀧之本坊昭乗等の   数寄屋建築に於ける往古の巨匠が多く排出されました。

桃山時代は建築的にも日本では珍しい聚楽第等の                   絢爛豪華な様式も発達しましたが、                             一方、茶室として使われた数寄屋建築は、                        文字通り、好き勝手な材料と様式の「ゴッタ煮」的要素もありますが、        其処に茶の湯の「わび・さび」の心意気を建築的に上手に顕現化しています。

部屋の大きさは最少では2畳間に床の間付きと言う、建築的には考えられない狭いものから、書院様式も整えた寝殿造り様の茶室まで多岐に渡ります。

天井の造りも平らなものは皆無で、
殆ど傾斜したり何種類もの天井様式を組み合わせています。
内壁にしても、無開口のものは殆どなく、上部や下部に必ず小窓や明かり取り、
壁の下地をわざと表した「小舞」などがしつらえられ、
畳には茶道のための切炉や水屋が併設され、
床の間や書院も造られるので、
独り、或いは2~3人が静かに話し合ったり密会をするのは
最適で落ち着く空間と思います。


こう言った感覚が何処から来たのか、当初に書いたとおり、
世界的にも類例が無い訳けですから、
日本人特有の美的感覚と心情が根底にあったと思います。
それが、どうも宗教と言うより個人的な信仰的根源が在っての事と最近感じています。
それは、茶道に於いては点前の茶碗を必ず一回転してからお茶をすすりますが、
これは正にキリスト教の祭祀である「受肉」であり、
キリストの磔での出血の血をすするのと同じ行為です。
後は、麦で作ったパンを一口食べます。
そのパンを隣人に分けると「際限なく増え続ける」と言う奇跡が起きる訳です。
隣人愛はそれ程に強烈な力を発揮する訳です。


本来は、キリストの血をすする等はサタンの惑わしの名残で邪道です。
キリストが十字架に掛かって人類の罪を一手に引き受けた等は
後からのこじつけに過ぎません。
大きな悲嘆の中からやむを得ず磔の死に天上界が遠大な意味を持たせ、
人類に最後の審判までの一時の許しを与えただけです。

無論、近代の人が茶室を造る動機は既に変わっているのかも知れませんが、
一度、その空間で、独りで「瞑想」や「止観」をしてみれば、
真実が見えて来るのではないかと思います。

数寄屋建築にしても自然発生的に成立する事は皆無で、
必然的動機が在って選択されたものと推察している処です。

秀吉が何故、利休を殺したかの謎にも茶道そのものの底流に原始キリスト教つまり、景教の影響が色濃く存在した事が考えられます。

秀吉の趣向は段々派手になり、派手な着物を着て金の茶碗を作らせたりした   位ですから、きっと、利休の真相にある茶の湯の理念との乖離が大きくなったのでしょう。それが修復不可能なくらい大きくなった時点で利休は殺されてしまいます。逆に観れば、それ程に利休の信念理念はぐらつかない位に強固であった為の悲惨な結末を迎えたと言う事でしょう。



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