隠れシャイ

 最近このワードが自分を説明するのにピタッと来る気がした。今までの人生を振り返ってみると、なんというか主張強めに見えてシャイ、シャイに見えて主張強めというのが相応しい気がする。
特徴として良くあるのがスピーチ等、対大勢に喋る時はあまり緊張しない。しかし逆にデート等1対1(因みに著者は総デート回数は2回である)のコミュニケーションは妙に力んでしまうのだ。これは同性相手でもそうなる為確かである。

 これは日本人にとっては割とレアケースらしい。日本人は目立つのを憚る人が多い為、スピーチ等に苦手意識を持つ者は多い。それ故か、時に、この対多数を相手に物怖じしない態度は羨ましがられる事がある。実際部活の勧誘では、一人で教室に入り一発芸を披露した事もある。

 ここまで話して何が言いたかったというと、自分がどういう人間なのか未だに不明だという事だ。そしてそのような人は他にもいるのか好奇心が湧いている。

 noteでしばらく色々な記事を拝見したところ、比較的自己理解が進んでいる方が多い気がする。だが私は本当に自分の事がよく分からない。

 だからこのnoteを使って自分の率直な考えを吐き出していく事で、自分が何を考えているのか少しでも理解を深めていこうと計画している。

 昔から変人とは言われていたが自分ではそうは思わない。確かに小学生時代を宇宙について熟考する為に費やしたり、図書館で本を読んでいたら急に閃いてバスケを始め、そこから中高も部活をやったりと、そういう要素が無いと言ったら間違いになるが基本的に自分はなんやかんや常識的だと思う。それに幼年期には誰しも、非合理的な行動を多く行う。というより、そもそも人間とは非合理的なのだ。そしてそれでいいのだと思う。そうすると人間は案外皆変人なのかも知れない。その度合いが人によって違うだけで。

 この記事を書いて特にやりたい事はない。ではなぜ書いているのかと聞かれたらそれは分からない。犬になぜ吠えるのかと訊くのと同じ事で、必ずしも行動に意味が含有されているとは限らない。皆何かの論題を決めて記事を書いているが冷静に考えればそれは強制されている訳ではない。ただ散歩するように記事を書くのも悪くはない。

 近頃AIが登場したのもあり世の中は加速し続けている。だが私はむしろ減速したい。今のスピード感は人間に合っていない気がする。それが争乱や病を引き起こすのではないか。そう思う。

 だからサウナが好きだ。サウナに入っている時は何も考える必要がない。というより高温により体がぼーっとしてくる為何も考えれなくなる。この状態がたまらなく気持ちがいい。

 イライラしている人はとりあえずサウナに入ればいいのではないかと思う。とりあえずサウナに入っとけば皆幸せになれる。

 思えば幼少期に外遊びを満足にさせてもらえなかった反動が今になって押し寄せている気もする。自由気ままに記事を書く私と、そこらの公園で走り回る子供、やっている事に本質的に差異はない。どちらもただやりたいからやっているだけだ。そしてそこに生産性とかを持ち込まないでほしいものだ。

 秩序や生計が大事なのは理解するが、そればかりだと息が詰まる。そして現代社会はより息が詰まる。そこでAIを使ってはどうだろう。そういったつまらない事はaiに任せ人間は各々自由に生きる。それが結果的には生産性の高い社会だろう。人間が一番能力を発揮できる時は好きな事をしている時だからだ。なのでどう考えてもこのような世界を創る為に我々は努力すべきだ。AIを過信する事には批判があるが、逆にAI以上に人間にとっての強力な助っ人はいるだろうかと問いたい。巨大な力には巨大な責任が伴うのは理解するが、それでもAIを世界的により推進させていくべきだ。それがユートピアを創る為に不可欠ですらあるだろう。

要は加速主義、能力主義、競争主義にはもううんざりだと言いたい。人類はもう次のフェーズに移行すべきだ。というより移行しなければならない。今のままの世界が続いたらこの世の喜劇と悲劇、勝るのは悲劇のままになってしまう。

 もう疲れたので何も書きたくないが眠れない為仕方なく書いている。なのでここで読むのを辞めてもらっても構わない。

 仕方なく世界に生まれたと考えるか、それもいいだろう。厭世的な気分に浸り、それに自己陶酔する。それもまた乙なものだ。戦争は物理空間のみで起きる訳では無いのではないか。人々の精神空間においても戦争は起こり得るのではないか。そしてそれは今すでに起こっているのかも知れない。特にコロナが始まってから世の中の雰囲気は間違いなく変化した。人々の心の距離が遠ざかっていった。皆保身に走るようになった。あの愛に溢れた感覚はもう味わえないのだろうか。何故お互いに睨み合うのだろう。2chやTwitterに棲みつく人間はなぜああも排他的なのだろう。理由を考えなければいけない。私にはまだ分からない。私は優秀ではないから、分からない事だらけだ。それが恐ろしくもあるが、探究心や好奇心にも繋がる。何も言えないじゃないか、なんて馬鹿なのだ。

人を差別するような言葉は大嫌いだ。いつから人々はそのような言葉を当たり前に使用する様になってしまったのだろう。悲しい事だ。歴史を振り返れば自分らがいかに恵まれているか痛感する事だろう。これ以上何を嘆くのだろう。その姿は満腹になりながら獲物を探し続ける獣と同じではないか。なぜ獣になってしまうのだろう。なぜ客観視が出来ないのだろう。悪は必要なのだろうか。そういう説もある。悪がある事で善は輝く。陰陽説に近い。では悪が存在しない世界での善は何になるのだろう。偽善か、それとも保身か、はたまた本能か。
 
 疲れたので今日はここまでにするとしよう。
この様な便所な落書きの様な拙い文をここまで読んでくれた方に感謝の意を示したい。

 

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