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昭和61年衆参同日選挙序盤

 ガタガタの初日から2日目以降は何とか行程を立て直して選挙戦は進んでいた。この頃パソコンなどもなくワープロが1台あったが、全て手書きで日程は書かれていた。野中広務陣営としては、最新鋭の選挙戦をやろうと11市33町村の各後援会連絡事務所に、FAXを設置した。これは便利だった。今のFAXは、ほとんどコピー用紙を使用しているが、ロール紙のものだった。事務連絡を確実に流せるので口頭で伝えて間違って伝わることがなくFAXを各連絡所に設置できたのは大変ありがたかった。
 毎日の街宣車の日程もウグイス嬢のシフトも手書き、11市33町村の連絡所一覧も手書き、個人演説会の弁士送迎なども手書きだった。それでもFAXがあるおかげで各後援会事務所に、「今から日程送りますのでよろしくお願いします。」と電話で伝えると、「FAXきたぞー」だけで確実に伝わる。これは手間が省けて効率がよかった。
 また、毎日4会場から5会場で夜に開催する個人演説会は、少ないところで150人前後。多ければ1500人ぐらい入った。町村では、選挙はお祭りのような感じでまだ当選2回の野中先生が町に来るというだけで人が集まった。中央からの応援で大臣などが来るとさらに人は集まるし、企業からの動員もかかり個人演説会の会場は、熱気に包まれた。今は、4会場、5会場と個人演説会が出来る議員は少なくなってきている。空中戦やイメージばかりを考えて選挙戦をしている陣営が多いように見受けられる。

 話はそれたが、秘書として初めて内側から見た野中先生の選挙は、運動員の頃と比較にならないぐらい厳しいものだった。やはりどこもプロの世界は厳しい。「今日は、街頭演説をあそこの場所でやったが誰々が出て来ていなかった。何故なのか?調べろ。」とか、「個人演説会は、このくらいの入りしかなかったから再度、あそこはテコ入れしろ。」とか、野中先生から指示が先輩秘書たちに飛んでいた。私は、雑用係だったので、それを見ながら「自分も野中先生から指示されてあのように出来るようになるのかな。」と初日からいろいろなアクシデントがあり怒られたので、秘書を続ける自信を失っていた。唯一この選挙事務所で気が休まる場所は、2階建てのプレハブが3棟建てられているうちの道路側のプレハブの2階にある運動員の待機部屋だった。そこに行くと後輩たちが個人演説会の用意や弁士の送迎のための地図作りなどをしていて私も運動員の頃は、この部屋で自分の出番まで同じ運動員と喋りながら選挙を楽しんでいた。また、この場所には、毎日、個人演説会が開催されるために、応援弁士のタレビラを書く書道の達人のお爺さんも運動員と和かに話しながらタレビラを書かれていた。このお爺さんは、野中先生が自宅に帰ると毎朝顔を出す喫茶店のマスターの父親だった。野中先生の選挙は、目立たないところで先生が町会議員に立候補した時から選挙を支えてこられた方々が動かれていた。また、選挙事務所の食堂では、先生の奥さんや妹さんが、賄いをされているのだが、全く先生の身内とわからないようにされながら手伝いに来られていて、食堂に来る人に「ご苦労様です。」と頭を下げてにこやかに食事をテーブルに運んで来られていた。

 このような状況で選挙戦は3日間が過ぎていき
京都府の北部地域の日本海側に行く日程を迎えていた。候補者と運動員たちは、2泊3日の日程で北部地域に行くのでこの一団を送り出すと宮津事務所が担当になり、選対本部は、この間余裕が出来る。ここで今までの失敗を取り返すように
再度、行程やシフト、動員をどうするか、団体対策の状況などを分析して作戦を組み直す作業が始められた。

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