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国会議員の秘書 36(金丸先生の一本の電話)

 平成3年の年末、自民党の税制改正大綱が出て、そして平成4年度の大蔵原案内示の初日を迎えた。その内示を大蔵省が発表すると同時に、京都府の荒巻知事が急いで京都から上京され、議員会館の野中広務事務所に来られた。
 荒巻知事とは、野中先生が京都府の副知事時代に一緒に副知事をした間柄であった。荒巻知事と野中先生は、議員会館の事務所の奥の部屋で話しをされていた。野中先生が、「山田君、金丸の親父がどこにおられるか、パレ(金丸事務所の通称)に確認して、すぐに会いたいと言ってくれるか?」と言われたので、私は、金丸事務所に電話をした。すると「今は、砂防会館の経世会の会長室におられる」ということだったので、野中先生と荒巻知事、そして知事の秘書さんを車に乗せて砂防会館へ向かった。当時、京都は、平安建都1200年を迎えるにあたり、京都迎賓館を京都御苑の中のグラウンドがあるところを候補地として誘致する活動をしていた。その調査費が平成4年度の大蔵原案内示で付いておらず、それを知って荒巻知事が急いで京都から上京されてきたのである。その話を金丸先生に伝え大蔵省に調査費を付けてもらえるように掛け合ってもらうお願いをするために砂防会館の経世会の会長室に行った。 
 会長室に入って行くと、野中先生が金丸先生に京都迎賓館のひと通りの説明をして大蔵原案の一次内示で調査費が付いていなかったことを伝えられると金丸先生が「おーい、大蔵省の〇〇に連絡して繋いでくれ。」と言われた。金丸先生の秘書さんが指示された方に、連絡を取られて会長室に入って来られ、金丸先生に電話の受話器を渡された。金丸先生は、「〇〇君か、今、京都の知事と野中君が私のところに来ておるのだが、京都の迎賓館の調査費がなかったようだな。」と言われると受話器の向こうで大蔵省の幹部が何かを言われていると「うん、まー、そう言わずに、500万ぐらいなら、その辺のものをちょっとかき集めたら出来るだろ。それじゃ頼んだぞ!」ガチャンと受話器を置かれた。荒巻知事と野中先生は、「ありがとうございます。」と声を揃えて言われた。そして金丸先生と少し話をされて会長室から出られた。私は、金丸先生と大蔵省とのやりとりを目の当たりにして「党内最高実力者と言われる金丸先生は、凄いな。あれだけの電話で国の予算をすぐに動かされるのか。」と驚いたのと同時に、「うちの先生も将来あんな感じに電話一本で国の予算を動かせるようになれるのだろうか。」となんだか少し悔しい気持ちが湧いてきたのも正直なところだった。翌る日になると大蔵原案の二次内示で迎賓館の調査費がきっちりと付いていた。
 年が明け、国会も始まり、2月になって金丸先生が京都入りをされることになり、京都御苑の迎賓館の候補地を視察された。私も学生の時は、京都御苑には大学が近かったのでよく行ったが、視察をされた場所までは入ったことがなかった。京都御苑の中は、日常の京都御苑の周りの喧騒とは違い静寂の中でまるで別世界だった。仕事中とはいえ、その風景に感動した。夜になると金丸先生を京都の料亭に案内し、金丸先生が昔馴染みだったという祇園の芸者さんが数名おられ、どうされているのか会ってみたいということを言われていたので、京都事務所の秘書が血眼になって探したら一人の芸者さんが健在だったのでお座敷に来てもらうようにした。確か、その芸者さんは、90歳近くだったようなことを覚えている。久しぶりの再会に金丸先生は、大変喜ばれていた。
 経世会の番記者さんも金丸先生の京都入りに、たくさん同行されていたので、別の料亭で京都事務所の先輩秘書が記者さんたちの相手をしていた。それと同時に、金丸先生には、もうひとつの会場をセットしていた。それは、社会党の田辺誠委員長が京都に来られており、祇園の一力茶屋で場所を設けて、金丸先生と田辺委員長が会われるということだった。これを伏せるために、番記者さんたちには申し訳なかったが別の場所に切り離して食事をしてもらったのである。しかし、数日経って金丸、田辺会談が京都の一力茶屋で行われていたと週刊誌に掲載され、野中先生と田辺委員長に同行された社会党の議員の間でどちらが漏らしたのかと問題になり両者でギクシャクしたが、野中先生は、一力茶屋については、事務所全員と料亭など関係者には、箝口令を敷かれていたので、何処から漏れたのかはわからなかった。
この夜は、金丸先生も三次会まで行かれて久しぶりの昔馴染みの方とも再会されたことなどからお酒も進み京都の夜を満喫されて非常にご機嫌だった。
そうして京都迎賓館の事業が平成6年に閣議決定されるに至り、京都建都1200年の事業の一つとしなって新たな迎賓館の誘致に向けて順調な滑り出しをした。

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