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野中広務京都事務所の日常

 昭和61年の衆参同日選挙も終わり、選挙の残務整理も済み、日常の事務所業務に戻った。

野中広務事務所は、京都駅の八条口の新幹線改札口を出て八条通りを挟んで向かいの木造二階建ての建物の二階に京都事務所があった。
 新幹線の改札口を出てタクシー乗り場の向かいを見ると、その建物の二階の窓の上に「いい郷土つくろう!」という野中先生のキャッチフレーズの横書きの看板とその下に「衆議院議員野中ひろむ事務所」という看板がかけられているのですぐにわかる。この場所は、選挙区ではない京都1区なのだが、京都駅の前に事務所を構えたのは、選挙区の方は、国鉄を使う方が多いので野中先生が
「国鉄に乗る選挙区の人が、列車に乗るまでの時間を潰してお茶を飲みに来てもらうように、待合室になれば」ということでこの場所を選んだということであった。私が、京都事務所に勤務していた頃は、八条口近辺は、再開発も進んでいなかったので、この辺りは、住宅が建ち並んでいた。
事務所の隣は、国鉄OBがされているタバコ屋さん、その反対の隣は、喫茶店であった。

 私は、ここに平日は、9時前に出勤して、毎朝の業務としては、先輩秘書が新聞のお悔やみ欄をチェックしたものや後援会の方から連絡がくる弔電の依頼をまとめて電報局に連絡することで1時間ぐらい弔電を打つことから始まる。だいたい1日に打つ電報の数は平均30件ぐらいだった。
そして、第一秘書が10時ぐらいに出勤してきて「コーヒーを注文してくれるか」と事務所の女性に伝えると「コーヒー飲む人?」と人数を確認して隣りの喫茶店にコーヒーを注文する。コーヒーを飲み終えると私は、先輩秘書の運転をして後援会まわりをする日課が続いた。余談だが、季節の変わり目や天候の悪い朝などは、出勤する前に「今日は、弔電の数が多いやろうなぁ」とわかるぐらいになっていた。

 先輩秘書との後援会まわりは、選挙区が広いので1日に10軒から20軒が精一杯だった。各市町村の後援会幹部宅を訪ねて行って、世間話をしながら町の情報を取り、誰がどうされているかや依頼事をされたり、また、何処どこの人の子供さんが結婚するから祝電の依頼を受けるなど、いち早く町の情報を取って野中先生に情報を入れたり、野中先生の支持基盤を固める活動をするのが私たち地元秘書の役割だった。また、夜になると後援会の方の家で食事をさせてもらったり、その町の飲食店に連れて行ってもらって食事をする毎日だった。私は、お酒が飲めないので先輩秘書の運転をしながら後援会の方との食事会が終わると酔っている先輩秘書を家まで送って帰る日々が続いた。だいたい毎日、自宅に帰れるのが午前1時ぐらい、それが月曜日から木曜日まで、金曜日には、野中先生が東京から京都に戻ってくるので金曜から日曜日までは、野中先生に随行するため夜は野中先生の会合が終わったら帰れるのでいつもよりは少し早めの23時ぐらいには自宅に戻ることができ、朝は、10時ぐらいに野中先生と待ち合わせですむので、私としては、土日は、楽な勤務と思っていた。
先輩秘書たちは、野中先生の出席できない会に代理で出席したり、後援会の方が行く旅行会について行ったり、また、京都事務所では、あらゆる方が話をしに訪問されたり、要望にこられるので、事務所では、その話しを聞いたり要望を受けるのは、事務所長や事務所に残っている秘書が対応していた。
この頃は、政治資金規制法もさほど厳しくなかったので、野中先生だけでなく代理で会合に出る秘書もお祝いを持っていったり、冠婚葬祭も秘書が代理出席していたので慶弔費だけでも、年間を通すと相当な金額がかかっていたと思う。また、相変わらず、引っ切り無しに電話がかかってきて、来客も途切れることなく毎日が目まぐるしく息つく暇がない事務所であった。しかし、私は、他の世界を知らずに、大学を卒業して入ったので、このようなものが日常の事務所業務と思いながら勤務していた。

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