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野中広務の地元秘書として稼働

 3期目の当選が決まり、翌日からの選挙事務所の撤収は、後援会の方と運動員にしてもらい、私は、野中先生の京都で活動をする時の随行の秘書となった。運転専門の秘書と私が2人1組となり、私は、車の助手席に乗り、野中先生の身の回りの世話から荷物持ち、会合の会場から次の会場への時間に到着するなどの連絡や事務所からの伝言。野中先生がその場で直接受ける有権者の方からの要望などの記録をすることが主な業務となった。
 先ずは、選挙が終わったところだったので選挙でお世話になった方々に挨拶まわりをするのに、随行した。広い選挙区であったため、野中先生本人が挨拶に行くところと地域、地域の後援会を担当している秘書がまわるのとを手分けしてお礼の挨拶にまわった。それでも野中先生が1日にまわる数は、30件から50件が限度だった。これを選挙後1週間以内には、やらないと「お前たちは、選挙の時しか来ないじゃないか?野中の顔を見たことないわ。」とよく選挙を手伝ってもらった方に言われた。1週間後には、特別国会が始まる。その間までにまわれるだけまわらないと到底追いつかない。
それだけたくさんの方に支えてもらって当選させてもらっているのだ。
 また、選挙後は、事務作業も莫大にある15万人近く集まった名簿の整理や選挙の収支報告書の提出。選挙結果を特集する機関紙の号外版の作成と発送など挨拶まわりの合間にやらないといけないことが山積していた。そのため選挙で来てもらっていた運動員の数名には引き続きこれらの作業を手伝ってもらった。
 また、この選挙を最後に、次の年に行われる統一地方選に出馬するため、後援会連合会事務局長をしていた二之湯智さん(のち参議院議員)が、事務所を退職された。私は、以前先輩秘書から「この仕事は、誰も君には教えないし、仕事も自分で探して作れ。溢れてる仕事なんかいっぱいある。」と言われていたので、二之湯さんの業務の一つであった自由新報(現、自由民主)という機関紙の号外版の作成を私がするようになる。私は、これを出来たことに後々感謝することになった。今もこの時のことは、京都を知るうえで役に立っている。また、選挙の収支報告書を事務所のメンバーがすることなく前尾繁三郎先生の秘書をしていた二之湯さんの後輩秘書をしていた方に任せていた。私は、「事務所のお金のことなのに、何故事務所の人がやらないのか。」疑問に思い、野中先生に、車で移動している時に質問をした。すると「次からは、政治団体の収支報告は、君が作成しろ。」と言われて、選挙の収支報告書の提出が終わると二之湯さんの後輩で前尾先生の秘書をしていた方に、収支報告書の作成の仕方を指導してもらいに通った。後になってわかったのだが、その方が私に指導してもらっている時に言われたことを今も鮮明に覚えている。「山田君、君、いいところに気がついたな。収支報告書を作成できるようになると秘書を辞めさせられることはないから、作成の仕方を教えるから、しっかりやり方を覚えろよ。」と言われた。その時の私は、全くその意味がわからず、「はい。ありがとうございます。頑張りますのでご指導よろしくお願いします。」といって収支報告書の肝の部分などは、どうするのかなど教えてもらえなかったが、書き方の指導をしてもらい。何とか自力で出来るようになった。
 これで私には、自由新報の野中広務特集年2回の作成と野中広務の政治団体の収支報告書の各年度の作成。さらに、各種団体のパンフレットや記念号に掲載する挨拶文などを私が書くことになった。
地味な仕事ではあったが、挨拶文や機関紙の文章は、野中先生の考えを理解するいい機会となり、これが私の野中広務秘書としての位置付けと後々の秘書人生において宝物となったと自分では思っている。

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