見出し画像

ガラスのオブジェ(ショートストーリー)

ガラスの繊細な両手が、包み込むように愛しさを込めて守っているのは、ガラスのハート。ハートと言うより祈りそのものだ。
だがハートも手も無色透明なのに、色を感じるのは自分の中にある何らかの想いとリンクするものがあるからだろうか。

ガラスのオブジェは、ある美術館に数年前から展示されている。
そのオブジェを制作したのは、かつての私の夫だった人だ。しかし、私達は入籍のその日からも共に暮らす事は無く、仮面夫婦どころか法律上だけの夫婦だった。

だから私達は、お互いの事をまるで知らないのだ。少なくとも私は。
彼が亡くなったのも、私は新聞紙上で知った。
私の存在は、行方知れずのような扱いになっているため、最後まで私が表に出る事は無く、事実婚として彼に寄り添っていた女が葬儀の全てを取り仕切ったと聞く。

だが遺産として、ある程度の金額と、このオブジェが私に残された。ほかの多くの財産の行方は私の知るところでは無い。

彼は、誰を愛していたのか。子はいたのか。私が知っているのは彼の名前だけだが、私は彼の何らかの秘密を隠すために雇われた妻なのだろう。15年前に婚姻届を出した時に初めて会って食事をした。そしてこれが生きている彼と会った最後。
彼が亡くなり、毎月の生活費の入金は止まると思われたが、当たり前のように今までと同じ金額が振り込まれている。彼の資産を管理する者がそれで良しとするのであれば、断る理由もない。私は正式な妻であったのだから。

だが、一つの疑問が残る。彼はなぜ私に遺作を残したのだろうか。愛したものに残されるはずの、愛をテーマにしたこの美しい作品は愛する者にこそ残されるべきではないか、私ではない誰かに。

私は時々美術館を訪れて、このオブジェと対峙する。最初は、この手のモデルは誰だろうとか、彼の愛した人に伝わったのかとか、嫉妬にも似た感情を顕にしたが、今はただ、私に真っ直ぐ向かってくる何かを、受け止めたいと思うのだった。

私は一度だけ彼の墓参りをしたいと考えていた。
普通の夫婦ではなかったが、彼が私を養ってくれたのは事実で、かなり恵まれた暮らしをさせてもらった。
最初、彼の代理人に会った時、私は結婚にむかない女だと話した。親兄弟もいない事も。それが気にいられたようだ。私だって後悔をしているわけではない。むしろ感謝している。
だから、彼の菩提寺に行き、お礼の気持ちを伝えたいと思っている。

その寺は広島県の田舎町にあった。彼の出自について、私は何も知らないといっても良い。いつだったか、彼が先祖の墓参りに出かけた記事を週刊誌か何かで見た事があった。墓はその小さな町にあると思われた。私の故郷と意外に近い場所だった。
旅行気分で出かけるのも良いかも知れない。久しぶりに穏やかな瀬戸内の海を見てみたい。
そんな軽い気持ちで出かけよう。
目的を果たせなくても、久々に自分を解放しよう。そして、帰ったら彼の代理人に会いたいと思った。私も私に戻るために。

ガラスのオブジェは美術館に寄贈しよう。
それがきっと私の役割なのだ。

このオブジェに、もう語る事は何も無い。
私のこれからを見守るものは何も無い。私は私であることに誇りを持てばよいのだ。
今更感が無いわけではないが、今まで窮屈であったのは事実だ。これでいいのだ。
彼の墓参りを済ませば、全てが終わり、そして始まる。

オブジェをそっと抱きしめた。さよならの挨拶。
オブジェは思いの外暖かかった。伝わってきたわずかな温もりの中で、私は大きく息を吐く事ができた。



1429文字

#ショートストーリーストーリー