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「いつか別れる。でもそれは今日ではない」

「いつか別れる。でもそれは今日ではない」F

ずっと、なんてない。だから今が楽しく、切なく、永遠なのだ

10代20代の男女から圧倒的な支持を得る、新たな古典エッセイの誕生。

真夜中が、寂しくてよかった。
なにかに悩んだり、なぜか眠れない一人の夜、何度でも読み返したくなる一冊。

読み終わった後、二人の時間も、一人の時間も、今よりきっと、愛おしくなる。

高校生の頃からFさんの本を何度も読んでいる。間違いなく私の価値観に影響を与えた作家さんのひとりだ。
抽象的な捉えどころのない文体だから最初に読んだときは意味がわからないことも多かった。でも読み返すにつれて、またはいろんな感情を経験してから読むと、少しずつ理解できるようになる、そんな本だと思う。読んだときの自分の状況によって解釈が変わる。だから何度読んでも飽きない。これからもずっと読んでいきたい。


出会い系というものを私はやったことがない。大体この世界自体、出会い系のようなものだからだ。面白い文章か美しい文章を書く人としか私は会わないと決めている。そんな人といざ会ってみたら、面白くない人であったり美しくない人である可能性は数パーセントくらいのものである。逆に、面白くない文章や美しくない文章を書く人に会ってみても、ほぼ百パーセント、つまらない。

p44

好きな人を好きになったきっかけが、見た目でも行動でもなく、その人が書く文章だった時、上手くいくことが多かった。
文体や単語や、その視点に滲み出る知性・感性・論理・性格そのすべてをまとめて好きになっていたからだろう。

p46

最近、これがわかるようになってきた。

前までは、言葉なんて当てにならないと思ってた。LINEなどメッセージではなんとでも言える。でも実際にどうかは話してみないとわからないって。
だけど「口がうまい人」と「言葉を選ぶ人」は違うと気づいた。
LINEでも丁寧に言葉を扱う人は、人も丁寧に扱う。言葉のセンスがいいなと感じる人は、あらゆることにセンスがいい。
逆に、雑談だとしても誤字脱字が多い人はなんだか適当な感じがするし、話していても面白くない。

好きになったきっかけがその人の使う言葉だなんて、すごくロマンチックで素敵だと思う。

noteではもちろんだけれど、普段の何気ない言葉遣いにも気をつけられるよう心がけたいな。


永久に語られることのないものだけを見つけ、それをたった一人で愛する。

それはたとえば、どんなに無傷に見える人にも、本当は飛んで会いにいきたくなる人がいて、もう二度と会えない人がいて、死にたい夜があるということ。なにかを、あえて言わないようにしているということ。
あるいは、書かれたことより、書かれなかったことの方が多いということ。撮られたものより、撮られなかったものの方が常に多いということ。

p99

表に出ていない部分を見ること。
これって、かなり意識しないと見ることができない気がする…。

例えば本でも、書かれた言葉からいろんなことを読み取ろうとするけれど、書かれなかった言葉、あるいは省かれた言葉について思いを巡らすことはしない。そんなこと考えたこともない。

人の話でもそうだ。いつも言われたことしか気にしない。何を言われなかったかに思いを巡らすことはない。そんなことができたら人間関係ももっといろいろ解釈できるのかな。

ちなみに私が人に救われたときって、言葉にしなかった部分まで理解して話を聞いてくれたからだったかもしれない。全部言わない私が悪いけど、言いたくないことも言えないこともあるじゃない?でもその部分を汲み取ってくれた人はきっとそこまで意識してくれてたんだろうな…。もう感謝しかない。


付き合うのは待ち合わせをするためだ。
結婚するのは待ち合わせをしないためにするものだろう。

p186

初めて読んだときからこの言葉がずっと心に残っている。
なんか、好き。こんなことを言える人がいつか現れたらいいなと思う。


好きなものが一致するのに越したことはない。かつての孤独も意味不明な人生も全部救われた、という気にすらなる。でも、それだけでは特に何も起こらない。不思議なものである。好きなものが一致して、その喜びだけでどこにでも行けるのが人間なら、部活やサークルや会社など、その中にいる人間同士でもっと「そういうこと」になりまくっているはずだ。しかし、そうはならない。全然、なりそうもない。(略)
嫌いなものではなく、好きなもので自分を語れとよく言われる。誰が見てもその方が美しい。そんな綺麗事は何度でも言われなければいけない。
でも、それでも、好きなものが一致した同士で繋がった関係では、まだ弱いのだ。
なぜなら、やると決めていることより、やらないと決めていることの方が人は多い。言っていることより、言わないと決めていることの方が、圧倒的に多い。そしてその美学は、互いの目に見える形で浮かび上がることなく、感受するしかないからだ。

p237〜238

これも、最近わかるようになってきた。

友達や恋人は、絶対に趣味が合う人がいいと思っていた。恋人はいないけれど、食べ物の好みが合う、音楽の好みが合う、映画や本の好みが合うなどなどそういう人と友達になったり好きになったりした。なのに友達は友達のまま、好きな人は好きな人のまま特に発展しなかった。「弱い」という言葉はしっくりくる。

好きなことを発信する方が繋がりやすい。noteもXも自分の好きな本や興味のあるジャンルの投稿にいいねするし、フォローもする。
「〜が嫌いだ」と発信している人は滅多に見ない。だから、わかりにくい。日常でもそうだ。「好きな〇〇は?」よりも「嫌いな〇〇は?」を先に聞く人に会ったことがない。私も聞いたことがない。好きなものよりも嫌いなもののほうが見えにくいし、見ようとしないと見えない気がする。

やらないこと、言わないことが一致している人。

なんか抽象的な表現だけど、すごく仲のいい親友や尊敬する先生は、そうかもしれないなと思う。性格や趣味がぴったり一致しているわけじゃない。むしろ違うところもたくさんある。でも強い繋がりを感じられる関係。

なんか曖昧な言い方しかできないけれど、まずは自分の嫌いなもの、されたら嫌なことを知ることが大切かもしれない。そしてその視点で他人も見る。
そうするといろいろわかることがあるかも。

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