自分の死に目と、他人の死に目

私は今、介護の勉強をしている。
その理由は、ここでは書かないけど、まあ、必要に迫られて、という感じ。

その中で、終末期について勉強した。
当たり前だが、人の死に目にあうお仕事だ。
その辺を、しっかり勉強しておかないといけない。
その流れで、グループで「理想の死に方」や「喪失体験」を話し合うこととなり、私はした。

私の理想は、劇的な終わりだ。
さらりと死んでは、面白くない。
誰かに語り継ぎたくなるような、そんな死に方が良い。
覚えておいてほしいのだ、常に。
私がいたこと。
私がここにいて、どんな奴で、どんなオチだったか。
脚色してくれても良い。
ただ、私がいた。
それだけを、誰かに話したくなるような…そんな人生が良い。
忘れられたら、なかったことにされてしまうから、寂しくなる。化けて出てしまいそうだ。
そんな思いを言葉にしないで、ただ「劇的な死を迎えたい」と言った。
共感は得なかった。ただ、年上のマダムには「若い頃ってそうよね」と言われた。
私も、マダムくらいになれば、猫のように誰にも知られず、そっと死にたいと思うようになるのだろうか、とぼんやりと思った。

喪失体験の話題になり、私以外の人の話を聞きながら、私も何かあるかな、と考えたが、これといってなかった。
気づけば、人は死んでいた。
いなくなっていた。
ずっと病に冒され、何度も生死を彷徨っていた人も。
飼っていたペットも。
みんな、気づいた時には死んでいて、私は死に目にあえなかった。
私が話す番になり、素直にそのことを話すと「気づいたら死んでたっていいね」と言われた。
言った本人の意図は知らないが、その台詞に私は上手く返せなかった。
というか、怒りそうになった。
声を荒らげそうになった。
なんてことを言うんだ、と。
死に目にあえなかったら、あえなかっただけ、心にくるものがある、と。
怒るというか、怒り狂うというか。
そんな感じになって、プンスカしながら帰ってしまいそうになった。

身内に、数年前亡くなった人がいる。
その人の死に目にはあえなかった。
あおうと思えば、あえたのに。
あえたはずなのに。
私は、あえなかった。
あわなかった。
あおうとすらしなかった。
どうせ、死ぬかもしれない〜って騒がせて、元気に生きてるんだろうな、なんて軽く思っていた。
けど、そんなことなくて、死んでしまった。
そのことを、私は後悔している。
死に目にあわなかったこともだが、それ以上に、生前、その人と会話をしなかったことを。
今、立ち止まって、振り返ってみると、私はその人のことを知らないまま、お別れしてしまったことに気づいた。
何も知らない。
名前と顔と声くらいしか知らない。
声すら、段々と記憶から消えてっている気がする。
顔もだ。
母さんから話を聞く度に、自分に似ている話が出てくるものばかりが出てくるものだから、もっと会話をしておけば良かった、と思っている。
もしかしたら。
もしかすると。
仲良しになれたかもしれないし、同じような話題で笑い合い、時には悪口を言い合う仲になれたかもしれない。

そんな人が、ある日、ふと気づいたら死んでいたなんて。
こんな話のどこが良いんだろうか。
いや、この話は特に誰かに話したことはないから、知らないのは当然だし、知っていたら怖いのだけれど。
とはいえ。
気づいたら死んでいた、というのは、死ぬ本人からすれば気楽かもしれないが、遺される側としては、たまったものではないから。

だから、かも。
今、書いていて気づいたけれど。
だから、私は最後を劇的に終わりたいのかもしれない。
気づいたら死んでいた、なんて嫌だ。
遺される側の気持ちを知っているから。
けど、あくまでも私の気持ちであって。
もしかすると、私に「良いね」と言ったあの人は、本当に良いねと思ったのかもしれない。

聞いてないから、解らないけれど。