生き方と死について考える。

最近は芸能人の方が自殺で亡くなられたというニュースがTVやネットで多く流れている。
実際自分も東京にきて電車を待っている時に人身事故のアナウンスを目にすることはよくある。

東京にきて早々に店のことやコロナのことで正直嫌気が差す毎日だったけど、自分は周りの人間に支えられ今日も生きている。

私はまだ若いけど遠いようで身近な「死」と「生き方」という問題に対して自分なりに色々考えてみる。というより誰しも1度は「死」や「生き方」について考えたことはあるんじゃないだろうか?

人はいつか死ぬ。

ここからは完全な自分の主観になるけど、人間はこの世に生まれた時点で死ぬ日は決まっているように思う。よく言う運命ってやつだ。だから私はその運命に流されることもなければ逆らうこともしない。だから長生きしたいとも自ら死を選ぼうとも思わない。
まずはその事実をきちんと自分で理解し受け止める。

そんな宗教染みた考えで周りに理解されないことも多いが、自分自身この考え方を理解し受け入れた時に気持ちも人生も大きく楽になった気がする。
少し寂しいようだけど、これはこれですごく生きやすい。

というより大人になって「死」というものが身近に感じれるようになったからこそ毎日懸命に生きようと思える。

もっと簡略に言えば記憶に新しい『100日後に死ぬワニ』と同じだ。予め「終わり」が見えているからこそ、面白い。

自分がワニなら終わりの見える未来は退屈に感じるかもしれないが、見方を変えれば「終わり」を意識することで、有意義な人生を送れるのかもしれない。

まぁ頭がおかしいと思われるかも知れないが、こんな感じの思想のもと毎日生きているわけで人の死の時期というのは生まれた時点で概ね決まっていると思っている。

重要なのは「どう死ぬか」という問題だ。

以前「自らの意思による決定」という記事を書いた。この記事に通ずる部分もあるのですが、「どう死ぬか?」というのは、裏を返せば「どう生きるか?」ということだと思う。

ややこしいけど、「どう生きたか」で「どう死ぬか」が決まるということ。うまく表現しにくいが「どう生きるか」という問題は自らの意思で概ね決まる。

自分の生き方の評価基準というのは自分自身の考えだ。
だからこそ自分の意思で選択し決定する。

そして、他者の目を気にしすぎない。なぜなら周りの目や評価というのは、常々変わるからだ。決して悪いことではないが、他者の目を気にしすぎるというのは自信の無さの表れで他者の人生を生きるということだ。

そんなものに自分の人生を左右されていいだろうか?私はNOだ。

私は沢山の人にお世話になり支えられ今日まで生きてきている。
正直なところ今の自分は他人に自慢できるような生き方でもなければ、自慢できるような人間でもない。

ただ、「どう生きて」「どう死ぬか」を考えた時、なぜか今の生き方でもいいようにも感じる。今は自分のやりたいことを本能のままにできている気がする。

東京での刺激や出会った最高な方々のおかげでまた1つ目標も持てたので、自分を支えてくれる方々に最大の感謝と尊敬を持って精一杯やりたいように生きようと思う。

長々なりましたが、病んではおりません。笑

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