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典子伝—『典子幻滅』―2023/1/5―

彼はついに道ではなかった。私は救いの瞬間をこの体に得ようとして彼の言葉を待った。しかし彼はついに命ではなかった。人類は人類になろうとした生命である。人類の出発は新しい惑星上に展開する進化の始まりである。人間の多重構造について語っていた。原子分子としての物質的段階、細胞としての初期生物的段階、動物としての進化的段階、道徳を持つ倫理的段階、自我を主張する自己的段階、存在を問う懐疑的段階、存在を一つとする有我無我的段階、悟りを得る真人的段階。

彼の足の指に日の光がさし、小石を踏む足裏にざらざらと砂つぶは動き、衣の織り目にも砂はほこりとなり、白く物質の意味を問うていた。私の肉体はどうしようもなく私のものであった。彼の眼差しも又私の内にあった。言葉を信じるのか、彼はどこまでも自己自身の内に神の声を聞けと教えた。
 ああ、つらい仕事をつづけ、肉体の世界にいきつづけ、神の言葉を食わんとする、その意志によってのみ、この荒寥の地に棘は燃える。
 我が身を離れることはできない、おまえ達の身を通してのみ神はこの地上に彼の生を活かしえるのだ。だから、人間の憎悪が私の命を奪うだろう。いばらの冠を心にかぶせるだろう。

典子は彼の前を去り、わが家へと向かった。去年もその前の年も、あの様な男があらわれ神の救いの時は近いと叫んだ。彼よりももっとやさしく静かに、そして確信に充ちて、けれど私は彼の言葉を受け入れなかった。
 曲がりくねった岩の間の道を帰る時、風の飛ばす砂つぶの中にあって、あたりの景色は地獄のようであった。典子は衣の端で顔を被った。
 誰に神の声が聞こえると言うの。神は誰を救おうとしているの。私は私の意識の主人であり、命である他は、誰のものでもありはしない。神によって作られたなんて考えるのは、バカげた考えの極まる処だわ。人類の文化は何をして来たのか、人類の果てにはやはり破滅があるだけなのか。銀杏の葉は枝にあふれ葉の上に黄色を意味する。その色どりを——生物、地球上に生育する一種の生物、信ずべき状況とは、それだけの事よ。

典子よ、おまえは去っていくのか。愛する者の心はどの様にしてもおまえを救いたいと思うのだが、コミュニケーションの手段としては話し合う事が第一であるが、その為には共通言語を持たなくてはいけない。共通言語が持てない時にはどうするのか。その時には共通動作によってコミュニケーションを図る。それも不可能の時は、手と手の温かみによって我が愛を伝える。それも不可能の時は——
 私が彼女を知るとしても、道に逃れるその人を追う時には、すでに彼女はK点を通過していた。私もビワの実をもぎとり、だいだい色の皮を剥いた。場所はいかにしても、彼女から出立していなければならなかった。

日常の一つ一つの行為について彼は研究を重ね、重複を楽しみ、何一つ解決は得られなかったと話した。繰り返し彼は語ろうとした。予感せられた現象について後日に予感めいて語る事は、人をしていやしむべき行いなりと。典子は知っていてそれを話さなかった、別に他意はなく、ただ道を愛しているから、典子は知っていてそれを話さなかった。風と雨は突然激しくなり雷光が野面を照らし出した。いかにして卵焼きはおいしく焼く事ができるのか。パリの街を描くユトリロの背後に天はいつも在る。
構造と言うものは、重なる処の積量と思考する処の体積とが平面から立体へとなめくじの様な両足をしっとりとひねり出す物だとも思える。故に構成はしっかりと根が抱える岩石のしめり気とも大いに関係していると考えられた時代もあったらしい。
 芸術は夢なのさ、やたら理性の支配下に置きたがる人がいるようだが、冗談じゃない。芸術は感情的に創出されてこそ、港の茶色い錆び鉄ドックなのだ。はたしてだからと言って、苦しみの屋根はどこに碇泊を許可するのか。彼の言葉の初めから飴色に透けて見える虚妄の正義。では今日の処はこれで満足して下さい。早くここを立ち去れ、舞台への登場はやはりそれでも、青き真珠の真実なのだから、今は彼が死せんと努力した日々であらんかな。

何ものも見出す事はできない。私は私の世界を見るだけだ、どこまでも私の世界が私の存在を規定して来る。野のユリを見よ。折られるべくしてその茎は折られる事を拒否する。誰の言葉によってそれが成されるのでもなく、そして私の手によって事物は重みと震えと色彩を放出せねばならない。一指立てて彼は示そうとした、天は至る処にある。落下する天の中に我々は生活し、形ばかりの愛を自らの全体であるとさえ思い込むのだ。喋る力はみどりの果実をもぎ取るとき、力は夕日の背後に盗み行く理知を感ずる。

幻滅だ。宇宙はそれ自らの内部に幻滅の感情を育てていた。典子は点になり、亜熱帯の砂塵と消えた。