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ジャンクフードのつくりかた

 ――子どものために添加物や白砂糖、発酵について勉強しました。娘が幼いころは市販のお菓子は買わず、ファーストフードもファミリーレストランも行っていません。食事はすべて手づくりです。娘が小さかったころにつくった砂糖を使わないおやつのレシピはこちら。
『華、私ね、入院しているの』
 機械越しってこんなに声が変わるものだっけ。何年も連絡を取っていない母からのとつぜんの電話は、記憶に残る張りのある声音とはべつものになっていた。
「へえ……、そうなんだ」
 つーん、という耳鳴りが機械越しに伝わって、まず鼓動が脈打つ。沈黙が長く、重い。彼女の深いため息が聞こえた瞬間、次は心臓がばくばく音を立て、最後に指先が緊張した。
「お見舞いって、行ったほうが、いいですか」
 痰が絡んだようなわずらわしさに、一度咳払いをした。母は低い声で病院の名前と病棟と病室の番号を告げ、通話を閉ざす。このときわたしは、会社に持っていくお弁当のつくり置きのおかずをつくっていた。鮮やかな色味が目に触れ、自分でつくったくせに吐き気をもよおす。
 とつぜん、手の甲をぶたれたような衝撃が走った。あたりを見渡すが、わたし以外だれもいない。動悸がひどく、自分を慰めるように手の甲をさすった。
 
 男性教員と連れ立ってコンパにきたりょうちゃんは、最初からあまりやる気のないひとだった。マイペースにお酒を飲み、だれかに話しかけられたら応える。その彼がわたしに声をかけたのは、悪酔いして店の裏でしゃがんでいたときだった。
「大丈夫? 指突っこんで吐かせてやろうか
「いえ、けっこうです」
「だよね」
「ていうか、よく他人の喉に指突っこむとか言えるね。ドSかい」
 鼻で笑うと、彼も隣に腰を下ろす。
「まあ、いじめられたくはないほうっすかね」
 ちらりと彼を見やると、すいっとした涼やかな目もとが印象的で、けっこうタイプだ。わたしは爪の先でコンクリートをいじりながら、これはフラグというやつじゃないか? などと考えた。けれど、同時に違和感もあった。彼のほうには、女性を品定めする視線や、へたに優しくこしらえた下心がないように見えたので。
「もう帰ろうと思ってた?」
 覗いてくる声のかたちもどことなく平らで、聞き取りやすい。
「うん、けっこう酔ったし」
「気持ちいいくらい飲んでたね」
 彼は、くっと肩を揺らす。そのようすに揶揄は感じず好感が持て、つい口が滑った。
「味が、濃くてさ」
 店内にとどこおるジャンクなにおいを思い出し、胃の奥がぎゅうっとすくむ。口の中はねばついて気持ち悪いのに、なぜかおいしそうな唾液が広がった。
 ――添加物だらけだわ。
 心底幻滅したような声が頭の中に響いたが、幻聴だとすぐにわかった。あたりを見渡しても、あれに近しい人間はいない。息をついて安堵したはずが、天涯孤独にでもなったような寒々しさに見舞われる。
「あー、わかる。不健康な感じが逆にそそるんだよな」
 たったひと言の「わかる」に、はっとして彼の横顔を見る。
「だよね、そうなんだよ、だから」
「必死かい」
 このひとの唇は薄い。あの店でなにを食べたのだろう。
「駅まで送ります。俺も帰ろうと思ってたし」
 立ち上がった彼に釣られ、わたしも腰を上げた。夏が終わってもじめじめと蒸し暑く、風がいやな湿度で首筋を撫でていく。マキシスカートをぱたぱた払うと、汗ばんだ膝の裏がすうっとした。
 お店に荷物を取りに行き、誘ってくれた友人に会費を払い、ふたりでそのまま退散した。背後から、ひゅうー、と野次が飛んでくる。しかし彼はそれに見向きもせず、さっくり背を向けたので驚いた。なににって、隣にいるはずのわたしの気配が、一瞬消えたことに。
 これはフラグとちがうんじゃ? 彼のそっけなさがあまりに鮮やかで、気づかれないように笑った。
「そういえば、最初からやる気なかったよね」
 駅までの道すがら、酩酊したせいもあって気楽に問えた。
「やば。そんなにわかりやすい?」
 本心からやばいと思っているようには見えなかった。むしろ、抜け出せてラッキー、くらいの。
「そもそも興味なさそうっていうか、わたしも使われた感あるというか、ほら、そういうのって敏感になるじゃん」
 意地悪な表現だったかもしれないけれど、このひとが相手ならなんとなく許される気がした。さっき知り合ったばかりなのに、彼に窮屈な緊張感を持たないのはなぜだろう。
「まじ? ごめん。実は俺ー……」
 ん? と彼の顔を覗く。がりっと頭をかいたあと、彼はふと目を伏せる。
「ゲイ、なんだよね」
 え? と尋ねたときの、車道を行き交う車の走行音がやかましかった。ぶろろ……、と通りすぎ、排ガスと雑草の青臭いにおいが、さっき食べたものと一緒くたに喉で混ざり合う。
「きょうもつき合いで行ったんだけど、なーんか疲れたわ」
「そうだったんだ」
 フラグが立たないのも、値踏みされるいやな感じがなかったのも、そういうことだったのか。ひとりうなずいたと同時に、はっとする。取り繕うとか、ごまかしたりしないって、なにげにすごい。このひとには、「そういうこと」に関するコンプレックスがないのだろうか。
 彼の腕が、夜空に向けてぐっと伸びる。柔軟するようにぐるりと回し、すとんと落ちた。そのとき、白いTシャツが街灯の光で浮く。
 わたしも同じ。疲れた。
「だね、疲れたね。まあいいじゃん、無事に抜け出せたわけだしさ」
 彼は顔を上げ、面食らったように瞳をぱちぱちとまばたかせた。自分の受け応えがまちがったかと肝を冷やしかけたが、彼が気恥ずかしそうな笑みをこぼしたのでほっとする。こんなときに、どうして浮かぶんだろう。母の今夜の食事はおそらく、味の薄い病人食だ、なんて。
 病院へは、一度だけ足を運んでいる。担当看護師から、入院手続きの書類に家族の署名捺印が必要であることと、病状と今後の治療方針を説明したい、と連絡があったからだ。電話口で「はあ」と間の抜けた返答をすると、看護師は一瞬黙った。気を取り直したのか、今度はつとめて柔らかく、ご都合いかがでしょうか? と尋ねてくる。わたしがまた「はあ」と答えると、看護師は今度こそ、ふっと息を吐いた。
 平日は仕事だし、自分の不調以外で有給を取ってわざわざ病院に時間を割くのは避けたかった。土曜日の午前中、取り立てて急ぐこともせず、こちらが指定した十一時に間に合うよう、病院には着いた。けれど、五階に上がらねばならないのを、うっかりしていた。上りのエレベーターを二度逃し、ようやく目的の階に着いたものの、母親が入院している東病棟への行き方がわからない。入院患者や看護師たちが行き交う廊下をうろうろ行ったり来たりしながら、酸っぱいような残飯を掻き混ぜたような、およそ清潔とは言い難いにおいを嗅いだ。潔癖症としか思えなかったあの母親が、こんな場所で、とち狂わず過ごせているのだろうか。
 もう帰りたい。
 わたしの感情が足取りに滲み出ていたのか、歩みはずるずるとやるせない。とうとう、通りすがりの看護師に優しく声をかけられる。「東病棟に行きたくて」と答えると、この廊下を真っ直ぐ進んで、角を曲がってしばらく行くと連絡通路があるんですよ、そこを通って云々。聞くのも覚えるのも面倒になり、お礼だけ伝えてふたたび歩き出した。しかし、連絡通路に差しかかったとき、足が動かなくなる。とてつもなくくたびれてしまった。目的地まではおそらく遠くないはずだが、永久にたどり着かない気がしてならない。やはり帰ろうと踵を返しかけたとき、マナーモードにしていたスマホが鳴った。見覚えのある番号の表示にため息がもれる。バイブ音にまで、頭ごなしに文句を言われているみたいだった。
 放置したが鳴り止まず、着信に出た。まずは看護師が名乗り、今どちらにいらっしゃいますか? と尋ねてくる。「すみません、迷ってしまいまして」言い訳じゃない。ほんとうだった。けれど、とても悪いことをしている気分になった。院内で迷い、担当医たちを待たせ、わざわざ電話をかけさせたことが。
 とぼとぼ歩き、東病棟についたときはすでに十一時を十五分もすぎていた。案内されたカンファレンスルームには、担当医と看護師二名が椅子に座っている。
「遅れてすみません、迷ってしまいまして」
 もう一度伝えると、冷ややかにじいっと覗いていた六つの目はそのまま、彼らは口もとをゆっくり引き上げた。「すみません」もう一度謝罪すると、いいんですよ、迷いますよね、広いですものね。よそ行きで高めの正しい口ぶりに、いっそう罪悪感が押し寄せる。すみません、もう一度頭を下げた。許すという行為は、自然と相手より優位な立場を得られるものなのだろうか。そもそもわたしは、なにに、だれに、許されねばならないのだろう。
 まずは看護師から書類を渡された。こことここに署名で、印鑑はきょうお持ちですね、あとはお母さまの介護状況を詳しくお尋ねしたいので……。
 はあ、はい、はあ、はい。同じ言葉を繰り返しながら、次第に書類の文字を追うことに疲弊していった。嚥下と排泄機能の状況なんて一緒に暮らしてないのだから知るわけがない。だいたい介護状況ってなんだろう。湧いて出る疑問にも、わたしは立ち向かう気力も体力もなかった。そして、ところどころに挟まれる「お母さま」がどうしても浮いて聞こえ、耳に水が入ったみたいにぼやぼやしてくる。「お母さま」とはいったいだれのことで、どのひとを差すのか。「お母さま」はとうとう、患者という名詞に取りこまれ、なんと名前まで失ってしまったようだ。お母さまは末期の胃癌。もう長くないらしい。抗癌剤治療による幻覚症状もあり、おそらく統合失調症も併発しているとのことだった。
 彼女の死が間近に迫っているようだけれど、伝聞調の冷静な話し言葉にはまったく現実味を帯びない。
「あの、わたしに治療法のことはわかりませんのでお任せします。本人の意思に沿ってください」
 告げると三人はきょとんとし、目を伏せ、見えないかたちでふと笑った。鼻で笑われたと感じたのは、わたしが卑屈になっているせいなのか。ここでまたすみませんと謝罪すれば、このひとたちは簡単に口角を綻ばせる気がする。いいんですよ、と優しく振る舞う気もする。しかしわたしは、黙ったままでいた。三十分程度のカンファレンスは終了し、失礼します、と席を立つ。帰り際、同席していた看護師から声をかけられた。
「娘さまはきょう、お母さまの病室には寄られますか?」
 娘さまってだれだ。娘さまはどうやら、救済措置を施されているらしい。ここで頷けば、おそらく娘さまは許される。数々の無礼はチャラになり、お母さまの身を案じる娘さまになれる。
「きょうはすみません、予定がありまして」
 会釈して顔を上げたとき、彼女はほんとうに深く息を吐いた。ふと、看護師同士はどんなネタを肴に会話するのだろう、と浮かぶ。
 こういうとき、不思議に思う。病気って無敵なんだろうか。弱きを守る、という義務づけではないけれど絶対的な存在感を放つ空気と同じ扱いである気がする。事情を知らない第三者が、病気という個人的なものを理由に無神経な善意で諭そうとする行為に、腹の底がちくりとした。世間が讃える自由ってなんなんだろう。
 添加物を含まない優しい料理も賞賛される中で、簡単に楽しめるファーストフードも好まれている。わたしには、そのどちらも選べない。
 りょうちゃんに会って、思い切り愚痴りたかった。

「小野寺さんのお弁当、きょうもおいしそうだねー」
 週明けの会社で、隣の席の同僚が口の端を上げた。ありがとうございます、とわたしはへつらった笑みを繕う。
 ちょうど、統合失調症の症状について調べていた最中だった。インターネット上の文字をつらつら読み進めながら、とくに驚きも焦りもない。スマホをそのままごろんと置いてしばらく放置したら、画面が真っ暗になった。
 会社に持ってくるお弁当は、一週間ぶんのつくり置きから三色揃うように詰めている。きょうは、鶏肉のバルサミコソース焼き、玉子焼き、きのこのナムル、ブロッコリーとアボカドのサラダ、パブリカのきんぴら。はっきりと、このお弁当のどこがおいしそうなのかわからなかった。続けて同僚が、これってパプリカ? おしゃれー、と甲高い声で話しかけてきた。「パプリカっておしゃれだったんですねー(んなわけねえだろ色がくすまないだけだわ)、きんぴらなんですよー」と返した。きれいな会話のあとは、ろくなことがないのを知っている。
 ――インスタ映えでも狙ってんのかね、男性社員に媚び売ってるとか?
 彼女と周りの女性が給湯室で話しているのを聞いたことがあった。後者は時代錯誤も甚だしい。廊下も他人の口も漏れ度レベルはおそらく一緒なのだから、SNSでてきとうに吐き散らかせばよかったのにうかつすぎる。ただ、いつの時代も共通して言えるのは、女性は自分の生活や環境とはまったく無関係なことを理由に同性を「嫌う」。 
 この日、りょうちゃんにラインを入れた。
「ムカつくからうちに集合」
 返信は『やだし』だった。彼はグリーンショップで働いているらしいが、詳しくは知らない。ただ、寄せ植えなどで腕や指先をよく傷めると聞いたことがあった。軍手をして、さらに一年中長袖なのに、棘の威力はおそろしいのだと。この間など、顎にまで傷痕があって、すこしびっくりする。「大丈夫? なかなかサバイバルだね」と心配すると、彼は一瞬驚いた顔をして、ちょっときまりが悪そうだった。どうやら、髭剃りを失敗しただけらしい。
 りょうちゃんとは、あれからたびたび会っている。彼には同居している彼氏がいるらしいのだが、あまりうまくいっていないと言う。りょうちゃんから語ることはなかなかないが、わたしが不躾に尋ねると、ときどきぽつぽつとしゃべってくれる。そうする中で、りょうちゃんが中途半端な霧の中でたたずんでいることを、なんとなく感じ取った。
 結局、りょうちゃんの「やだし」は無視して、待ってるからね、と半ば強制的なラインを再度送る。帰宅時、暮れなずんでいく世界を見渡した。橙色の空は、寂しいのかあたたかいのか、単に街を照らしているだけなのか、夕暮れの彩りが意味するものはいつもわからない。
 りょうちゃんは十九時すぎに家にきた。出迎えると、「どうも」と答えてリビングに入り、テーブルの前に腰かける。
「お疲れー」
「俺の『やだ』がまったく通用しないんですけど」
 ぶつぶつつぶやくりょうちゃんに缶ビールを手渡すと、彼はまた「どうも」と言った。こういう言葉を彼は、いつも穏やかに伝える。
「まあまあおにいさん、ちょっと聞いてくださいよ」
 キッチンから声をかけると、りょうちゃんはプルタブを何度か指でいじり、そのあと引く。かしゅ、という小気味いい音は、この日の料理にも合いそうだった。
「どうせ愚痴だろ? で、きょうはなに? また同僚にディスられた? もういっそインスタはじめちまえよ、マウントマウント」
「ちがうわ」
 チキンのトマトガーリックソース和え、ほうれん草ともやしと人参のナムル、焼き茄子の中華ダレ、しらすとアボカドとレタスのサラダ。和洋折衷、もはやなにがつくりたいのかもわからないわたしの料理は、並べると彩りだけは美しくて安堵する。これできょうも、罪悪感に苛まれず済んだ。
「じゃあなんだ、あんたのツラの皮が広辞苑並みに分厚いってことがとうとう周りにバレたか、ご愁傷様さま」
「うまいこと言うよね」
「あんたのそういうとこまじですげえ」
 皮肉ったもの言いなのに、ふいっと口角の上がるりょうちゃんの唇には嫌味がない。そういうそっけなさに惹かれてわたしは気兼ねなく誘えるが、りょうちゃんがどう思っているかはわからない。つくりすぎたおかずを一緒に食べてくれるけど、同居人の彼氏が食事をつくって待っているからすぐに帰る。それを告げる彼の口調は、いつも味気なかった。
「きょうは一杯飲んだら帰るわ」
「え、まじか」
 りょうちゃんは、くいっとビールをあおる。「また彼氏優先かよー、ずるい」
「ずるくねえし、そりゃそうでしょ」
「なにつくって待ってんの? 彼氏」
「ないしょー」
「裏切りものめ」
「なんに対しての裏切りだよ」
 だから言いたいことがあんなら早く言いなさい。彼はそう続け、缶ビールを持ってキッチンに近づく。愚痴を言いやすいようにせっかく促してくれているのに、実際に向かい合うと、なにを話したいのかわからなくなる。
「あんたんち、前から思ってたけど調味料の数多いよね、料理好きなの?」
 なにも言わないわたしを尻目に、りょうちゃんはキッチンを見渡した。わたしは首を振って返事の代わりをする。べつに料理が好きなわけじゃない。昔から取り決めがあっただけだ。ひと口食べてうまいと声に出せるジャンクなものじゃなく、彩りも味つけも、ひとに振る舞うときに恥ずかしくないものをつくらなければならないという。
 同じように、統合失調症の接しかたにもルールがあるらしい。まず、「だれのせいでもないから責めないこと」。相互理解と信頼がなにより大切で、家族は味方というメッセージを送り、気持ちに寄り添い、否定しない。きれいで正しい言葉は大切な約束事のように綴られており、決まりを守れない人間には罰点がつきそうだった。今の世間が求める優しさそのもので引いた。
「なーんか、隙がない感じする。あんたのメシ」
 あからさまな嘲笑に鼓動が脈打ち、さまざまな記憶が閃光のように駆け抜けた。病院で浴びた冷淡な視線、非難を隠し持つじっとりした口調、弁当を褒めそやす同僚の好奇の目、いつだって毅然とした母親の姿。体の芯がざわざわする。
「やめてよ、もう……」
 病室で横たわる彼女の弱々しい姿を想像して、身震いした。その反動で肘がボウルに当たり、フローリングに落ちた。からん、という軽やかな音と共にサラダが床にばらけ、ドレッシングがおかしなかたちの染みをつくる。死骸のような食事の残骸が広がる。
 落ちた。落とした。怒られる。ごめんなさい。
 おかあさん。
 多いと言われた調味料が目についた。どうしよう、今度は雑多すぎることに怒られてしまう。背後から冷然とした目がじりじり忍び寄る。隠さないと。隠さないといけない。小瓶をひとつずつフローリングに落とした。落ちた。また落ちた。わたしは立ち尽くしたまま、ううう、とうなって頭を抱えた。
「ごめん。俺が悪かった。ごめん。あんたは悪くない」
 彼は謝った。字面にするとあっさりしたものだが、りょうちゃんの口調はていねいで、真剣だった。わたしは顔を上げ、我に返る。フローリングがめちゃくちゃで、自分がしたことにぞっとした。
「母親が、入院してて」
 りょうちゃんは、そっか、とだけ言った。そして、落ちた調味料を拾い上げ、床に散らばった残骸を片づけはじめた。長袖の隙間から、青痣が見えた。きょうは、鉢にでもぶつけたのだろうか。
 母親からの連絡がひんぱんになってきた。

『猫がいるから追い払ってくれない?』
 わたしの回答は「わかった。看護師さんに伝えておく」だった。病院の、しかも病室に、猫などいるはずがない。これも症状のひとつだとピンときて、自分に言い聞かせる。理解する、責めない、否定しない。わたしは彼女の前で、正しくなければならない。
『みんな私に死んでほしいと思っているのよ』
『何人もの医者が私を囲んで押さえつけるの。助けて』
 うん、うん、そうだね、こわかったね、でもわたしはそんなこと思っていないからね。
 録音した音を流すように、同じ言葉を繰り返す。そのたび喉が渇いて、お腹が空いて、味が濃いものが食べたくてしかたなかった。ファミレス、居酒屋、ファーストフード。心の中でつぶやく。
『隣の家族がうるさいの』
『ねえ、あのひとが隣の奥さんと浮気してる。どうせあんたの差金でしょ?』
 あのひとってお父さんのことだろうか。これにはすこし驚いた。うん、そう、その通りです。わたしはこの日も彼女を責めない。ああお腹が空いた。ファミレスに行きたい。喉にこたえるジャンクフードを片っ端から食べ尽くしたい。添加物、白砂糖、子どもには不適合な食べものを。
『お金がない。あんたが盗ったんでしょう。やると思った』
 うん、うん、そうだね、ごめんなさい、わたしが盗りました。肯定する。わたしはずっと彼女を肯定する。
『ねえ、窓の外で中国人が私を呼んでるの。一緒にパーティしようって』
 これには笑ってしまったが、最後に必ずくる言葉を知っているからまったく面白くない。
『いつお見舞いに来てくれるの?』
 そのうちね。毎回そう言って電話を切った。母親の、不純物を含まない正しい執着が、日ごとわたしを襲う。

 休日の昼間、部屋にいるときだった。たまたまりょうちゃんがきていて、見ているかもわからないテレビに目を向けていた。そのとき、テーブルに置いていたスマホが音を立てる。脊髄反射のごとく肩が震え、トレイに乗せていた紅茶が揺れる。振動でこぼれ、てろんとした楕円が盤上に広がった。こぼれた、と思った瞬間、たちまち足がすくむ。またまちがえた。頭が理解したとき、この着信に出なければならないと思った。
「あんた大丈夫? すげえ顔してるけど」
 りょうちゃんが、訝しげにわたしを見る。
「あ、うん。だい、じょうぶ」
 トレイをテーブルに置き、腰を下ろし、着信の鳴り止まないスマホを手に取った。「もしもし」と出した声はうわずっている。
『ねえ、きょう会いにきてくれた?』
「え?」
『部屋のドアにお菓子が引っかかっていたの』
「わたしじゃないよ」
『じゃあお隣の奥さんかな。毎日ちいさい子を抱っこしてね、遊びにきてくれるの。すごく優しいひとなのよ』
 わたしは吹き出しかけた。先日から延々と架空の隣の家族の愚痴を聞かされていたのに、きょうは優しいときたのだ。
「へえ、そうなんだね」
 いつも通りにわたしは振る舞う。
『きのうね、殺人事件が起きたのよね、ここで』
「そうなんだ」
 責めない、否定しない、相手は病人だから、母親だから、大切にしなきゃいけない、労らなきゃいけない。
『隣の家族だと思うの。いつもうるさくて嫌になる。包丁を持って歩いていたし』
「大変だったね」
 隣の奥さんいいひとだったんとちがうんかい、と突っこみかけるが、おくびにも出さない。
『ねえ、お見舞いにきてくれないの?』
 母の声は低かった。しゃがれていて、ソプラノだった彼女の声とは別人のようだった。わたしの「ために」おやつを手づくりしていた母親とは。
「……行かなきゃ、いけない、ですかね」
 電話の向こう側で、はあー……、と深いため息が聞こえる。心臓が跳ねた。鼓動が暴れた。またまちがえた。怒られる。
『ああー、そうですか。だと思ったんですよね、あなたですよね、悪の首謀者は。私のお金を盗んだのも、あのひとの浮気も、知ってるんですよ、あなたがあのひととファミレスに行ったこと』
 わたしはごくりと唾を飲んだ。まったく渇きが癒えなかった。目の前に紅茶があった。けれどこぼれていた。手を伸ばして飲んだ。ぬるくて、失敗したとただ思った。
『昔からそうでしたよね、あなたは私の言うこと聞かないひどい娘でしたものね、悪の首謀者、泥棒、ここに泥棒がいるの! 殺される! 早く助けて!』
 殺される! 殺される!
 親ってなんだろう。母親ってなんだろう。愛情ってなんだろう。子どもの「ために」ってなんだろう。おそらくこの女は、もうすぐ死ぬ。そうすればわたしは解放されるはずだ。なのにどうして? つねに母の機嫌に左右されていたあのころより、今のほうがずっと痛い。だったら早く死ねよ頼むから。
「いい加減にしてよ! 猫も中国人も隣の家族も奥さんも殺人事件もぜんぶあんたの妄想なんだよ! このキチガイが!」
 怒鳴り散らすと母は奇声を上げた。
 殺される! 警察呼んで! 
 耳を塞ぎたくて、通話を切った。スマホを放り投げた。ぶつかった先はベッドで、生憎機械は無事のようだ。安心したのか、憎たらしいのか、なにもわからない。ただ、言葉の過ちに罪悪感が満ちた。母を心底憎んで捨てられたらいいのにそれもできず、自分が持ちたい荷物も選べない。だったらせめて、病気という生きものにより、早くあのひとが殺されてほしかった。
 りょうちゃんが、わたしをじっと見ていた。責めるでも尋ねるでもない、平坦な瞳で。
「どうしてなにも聞かないの?」
「聞いたほうがいいの?」
「そこは聞くじゃん、ふつうに友達なら」
「俺はふつうとかわかんないし」
 かちんときた。いつも通り平らな口調で、周りとはちがう自分アピールをする。わたしだってちがう、しんどくて参ってる。もっとちゃんとわかってよ。
「ゲイだから? 自分だけは繊細な生きづらさを抱えてるとか言っちゃうわけ?」
「あんた性格わる。だれだって生きづらいだろ、よほど鈍感じゃなけりゃ」
 だれでもじゃない。「わたし」が苦しい。しんどさを、呼吸をするときに空気が喉を空回るせせこましさを、りょうちゃんが諦めないでよ。
「りょうちゃんゲイっぽくないもんね。最初からコンプレックスもなさそうで、飄々としてたもんね。ほんとはちがうんじゃない? 治るんじゃない?」
 口をついて出た言葉に、はっとした。
「なんだそれ、俺はビョーニンかよ」
 りょうちゃんの表情が一変し、みるみるうちに曇り、瞳が濁っていく。
「前にあんたが、『いいじゃん』って言ってくれたの、あれってその場の市民権得るための言葉か? そうだよな、理解してますって寛容なツラで懐の深い振りして、かわいそうな自分と比べてたんだろ」
 さあっと血の気が引き、頭から一気に冷えていくのに顔だけが熱い。事実、わたしは彼の性的指向を、コンプレックスに当たる「そういうこと」だと区別した。「かわいそう」を、半分こした気になっていた。見透かされていた羞恥も、軽薄な自分の言葉も、熱になってあふれてめまいがする。
「だいたい、ゲイっぽくないってなに? ふつうってなに? じゃああんた、いちいち言って回んのかよ。自分の恋愛対象は男性ですって」
 照準の合わなかったわたし自身の視点が、はっきりと定まった。
「おたくの事情は知りませんけど、どっちがかわいそう選手権したいならほか当たって。だれかを見下すあんたの愚痴と同じくらい不毛だわ」
 わたしも母と一緒じゃないか。混じり合えないのは相手が添加物だから、と。ゲイだから苦しいんじゃない。りょうちゃん自身が、自分の体と心を引き受けて生きているのに。
 ごめん、ごめん、ごめんなさい。
「あんたって、きっちり作ってるメシそのものだな。いやになる」
 りょうちゃんは立ち上がり、わたしに背を向けた。七分袖カットソーから伸びた彼の腕の隙間には、この日も青痣が浮かんでいた。

 あれから何日経っただろう。わかるのは、今が休日の夕暮れどきだということと、わたしはきょうも、一週間分の作り置きおかずをつくり、冷蔵庫をいっぱいにしたということだった。たくさんの調味料を並べたところで使うのはほんのひと握りだし、彩りを褒められたところで、わたしのレパートリーはすくない。また怒られる、とよぎったと同時に、うまい具合にスマホが鳴る。後ろ暗い気配が背後にずっとあり、まるで見張られているみたいだった。無視していると一旦止まり、しばらくしてまた鳴り響く。着信拒否にすればいいのに、罪悪感に追いかけられてできないままでいる。
 どこかで、ため息が聞こえた気がした。看護師の深くて低い侮蔑の音にそっくりだった。あなたの親なのに、とでも思ったのだろうか。あるいは、病気の母親でしょ、と非難したかったのか。だけど、支えるってなんだ。善意の心? 最後はせめて寄り添いましょう? わたしの人生を、その間だけでも捧げるのが適量のふつう? 世間が、社会が、周囲が示す正しく優しい世界に、わたしは寄り添えないでいる。
 りょうちゃんに会いたかった。謝りたかった。許してほしいから許してくれるまで謝りたかった。そして、なにもはじまらない不毛なふたりで、胸のうちと秘密をさらし合って息苦しくなりたかった。
 またスマホが鳴る。条件反射で肩が震え、首を動かしてディスプレイを見た。首筋の内側が、ぎぎぎ、とオイル切れのような音を立てた。すると、ちがうところがどきりとして、慌ててスマホに飛びついた。りょうちゃんだった。
『あの、俺です』
 いつもとはちがう、ばつが悪そうな、わたしがふだんりょうちゃんに愚痴るときと同じ口ぶりだった。
「りょうちゃん、ごめん、ごめん! ごめんなさい! あの、わたし」
『あーうん、わかった。それよりもさ』
 彼は普段通りの気軽さで、あっけに取られる。
『ちょっと、助けてほしいんだけど』
 わたしはとっさにうなずいた。
 アパートにやってきたりょうちゃんは傷だらけだった。マスクと眼鏡を着けていて、顔を隠していた。通行人とすれちがいざまにじろじろ見られるのがうっとうしく、出がけに雑貨屋で購入したらしい。けれど、赤く腫れ上がった瞼、鬱血して黒ずんだ眼窩は隠しきれておらず、おそらく遠巻きに険のある視線は浴びたにちがいない。驚いたわたしが言葉を失くしていると、彼はマスクをぐいっと下げて、どうよ、と調子よく見せてきた。唇も頬も、連なって赤黒い。
 かろうじて出た「どうしたの」は、かすれていて不自然だった。同居人と殴り合ったのだと、彼はけろりと口にした。
「ほら、会ったことあるだろ。教員の」
 驚いた。コンパで一緒にいた男性らしい。それ以前から恋人同士で、同棲しているのに一緒にコンパにきたのだと彼は言った。
「お互い『ふつう』になってみようってあいつから言い出したくせに、あれからずっと荒れててさ」
 とりあえずわたしは、りょうちゃんに冷たい麦茶を出した。あ、滲みる? そっとうかがってみたが、彼はこともなげにマスクを外し、グラスに口をつけた。いて、という声が低くて、この声はだれのものなのだろう、と思った。りょうちゃんのものでちがいないのに、はじめて対峙するような心地悪さがあった。
「これでも気い使って、顔はまずいなって、腹とか腕とか肩とか、腕はさ、二の腕の辺り。袖捲ってもわかんない場所。ほら、教員ってチョーク使うから袖捲るでしょ?」
 どこか既視感があった。袖の隙間から見える痣、顎にあった髭剃りを失敗したという不自然な傷痕。肩甲骨のあたりがぞうっとした。「だれもが生きづらい」と、平らに告げるりょうちゃんの「だれも」の中に、彼自身は含まれていない気がしたからだ。自分に優しくないことを彼が認識していないことが、わたしはとても苦しくなる。
「俺も、見えない場所を選んで殴るんだけど、バレなかったら平気で教壇に立てるクソ野郎なんだよね。だったらやってみろやって。なんか、そんな気分になんの、あいつとしゃべると」
 母親と電話で話しているときと同じ、無性にジャンクなものを食べたくなる。ポテトとか、ピザとか、添加物だらけで強烈なにおいが喉に絡むものを。麦茶なんかじゃだめだ。代わりに唾を飲みこんだ。生ぐさいだけだった。
「あのひとも殴ってきたからムカついて、すげえ腹立ったからさ、ぶん殴ったあとで肩も脇腹も噛んでやった。今どうなってんだろ、いてえなって騒いでて、あのひと、すっげええずいてた。唾吐いて、涙流して、もうめちゃくちゃ。最近ずっとそんなんで、ここに逃げてた」
 りょうちゃんの地続きの口調から、ままならなさがあふれる。だれかに聞いてほしい、背負わなくていい、同情も共感もいらない、いろいろあるんだねってそれだけでいい、些細な断片として聞いてって。
「りょうちゃん、ごめん。いっぱいごめん」
「俺もごめん。すげえ八つ当たりした」
 わたしは何度も首を振った。
 逃げてなにが悪いんだ。戦うことや自由でいることが賞賛され、逃げることだけが卑怯なはずがない。咎められることは、なにもしていない。わたしも、りょうちゃんも。
「りょうちゃん、あのさ」
 ん? と首を傾ぐしぐさは、怪我を負ってもいつも通りだ。
「病院、ついてきてくれないかな」

 病院への道すがら、わたしはぽつぽつと話しはじめる。
 食事の時間と食卓という言葉が、幼いころから苦手だった。
 料理教室を営む母は常に厳しく、食事中は作法ひとつまちがえれば静かに叱責され、彼女の細くて長い指と薄い手のひらが容赦なくわたしの手の甲を張った。見上げた先は、陶器のようになめらかな微笑みだった。
 ――華はだめな子ね、なにもできない子ね、おかしいね、私の子どもなのに。
 にこりと口もとを引き上げながら、彼女のソプラノの声を聞いた。母を見上げ、ちいさく拳をつくり、膝の上に置いた。ごめんなさいおかあさん、ごめんなさい、今度はまちがえません。
 その食卓にいつも父の姿はなかった。朝も夜もいなかった。おとうさんは? 尋ねても母は、あのひとは仕事が忙しいのよ、と整った唇を引き上げるだけだった。
 ――だからね、お母さんと一緒にいようね。あなたはてんでだめだから、もっとちゃんと躾けないと。
 陶器はやはりつるりとしていた。人間が持つぬくもりは感じず、背筋から首筋まで、ざくっと揺れた。
 一度だけ、父がわたしを玄関で待っていたことがあった。華、ご飯に行こう。夕飯前で、夕暮れの燃えるような橙色が瞼の中をただよった。誘われるがままに歩いたものの、一歩二歩と進むたびにどくんどくんと胸が鳴った。張り詰めた心臓が体を貫いた。おかあさんに知れたらどうしよう、またぶたれる、怒られる。めまいを起こしかけたときに、父がわたしの手を取った。大丈夫だよ、大丈夫だからね。ひやりとした渇いた手が驚くほど心地よかったのに、握り返して見上げたはずの父の顔を思い出せない。あるいは夕暮れが彼に満ちて、影がかかって見えなかったのだろうか。
 父が連れて行ってくれたのは、母が好む有名なイタリアンでもフレンチでも高級な料亭でもなく、海沿いの道路脇にあるファミレスだった。好きなものを食べていいよ、なんでも好きなものを好きなだけ食べていいんだよ、そう言って笑った父の顔は、やはり光が当たってよく見えなかった。
 チーズハンバーグ、チョコレートパフェ、それだけでいいのか? じゃあポテトも食べたい、ピザも、ハンバーガーも、グレープフルーツジュースも。わたしが言うと父は、よしきた! と張り切って呼び出しボタンを押した。
 あたたかい場所で食べる、笑顔と、会話と、柔らかい食事。芯からぬくもる温度は、触れたら緩やかに火傷してしまいそうだった。満腹で、おいしいため息をついても笑ってもよくて、途中で、お腹がいっぱいだよおとうさん、と席に背をもたれさせ、苦笑したって叱られなかった。美しい長い指も薄い手のひらも、わたしを叩いて咎めるひとはだれもいなかった。
 今度こそ、父は消えた。忽然といなくなった。母はますます厳しくなった。長いため息ひとつでわたしの心を緊張させ、目を細めて視線を逸らすしぐさで指先を震わす。添加物を許さなくなり、市販のお菓子をいっさい買わなくなった。出されたマフィンはからからに渇いた味わいだったけれど、母の不興を買うより好きでいるほうが楽だった。わたしはひたすら口を動かし、注意されない速度で平らげ、ノルマをクリアする。チョコレートパフェ、ポテト、ハンバーガー、たくさんのジャンクフードを想像し、自分の気持ちを救った。
 数年前、ひとつの記事を見つけた。母のコラムだった。「子どものために」という内容は、「子どものせいで」の言い換えだと思った。あのひとはきっと知っていた。わたしが父とファミレスに行ったことを。
 りょうちゃんは黙って、じっとわたしの話を聞いていた。
「大学進学で家を出るまで、ずっとなにかに責められているみたいだった。怒らないで、許してって」
 実体がないものに、わたしはずっと請うていた。自由にさせて、ぶたないで、わたしを蔑まないで。だけど、わたしはいったい、なにに許されなければならないんだ。これが常に体から離れてくれない。
「でもね、ひとつだけいい思い出もあるよ」
「なに?」
「あのひとは、わたしがちゃんと料理をつくると、ほんもののおかあさんみたいに笑ってくれた。よくできたねって頭を撫でてくれた。チャラになるはずないのに、許してしまいそうになる。いい思い出も悪い思い出も、記憶に残ってるかぎりは賞味期限なんてないから」
 うん、そうだね。
 りょうちゃんの声が、夜の中に溶けた。夏の終わりの生ぬるい温度は、とっくにどこかへ消えてしまっていた。
 病院につき救急外来の入口から、こっそりと母親の病室に向かった。だれかの足音が聞こえたら隠れ、女子トイレにも男子トイレにも潜んだ。高揚と胸騒ぎが一緒になって、常にどきどきしていた。院内は半分照明が落とされ、ちょっと明るくてほのかに暗い。静かで、空調の風は軽やかで、ここは外界から守られているのだと思った。だけどとき折り、獣のようなうめき声が病室から漏れてきて、とてつもなくこわくなった。痛みとかじゃなく、心がもどかしそうで。
「もし、だれかから声かけられたらどうしよう」
 思わずか細い声を出す。
「救急の行きかたまちがえましたって言えばいいじゃん」
 りょうちゃんは自分のぼろぼろの顔をひと差し指で差し、こともなげに答えた。「ごめんね」わたしは顔を伏せた。
「めんどくせえよな」
 わたしは、自分のカットソーの裾を掴んで口をつぐむ。
「相手を心底憎めないって、どうしようもねえよな」
 りょうちゃんを見上げた。彼の諦めたような口調と、それでも抗う意思を示す瞳に、じゅうぶん伝わった。
 個室のスライドドアは、とても静かに開閉した。もの音ひとつしない病室で、もしかしたら彼女はここにいないんじゃないか、それなら帰ろうか、と都合よくおじ気づく。けれどりょうちゃんが足を踏み出してしまったので、わたしもあとに続くしかない。おそるおそるベッドに近づき、彼女が眠っていることを確認した。痩せこけて、肌艶がなくなり、清潔感がまったくなかった。なのに寝息はすこやかで、単純に不思議だった。母はこんな顔をしていたっけ。こんなに弱々しかったっけ。おそろしかったあれと、目の前で眠る女性がうまく一致してくれない。
 こんなにちいさく、縮こまってしまった母に、わたしは。
 得体の知れないものが、しみじみとしぼんでいく。
 たくさん罵られた。蔑まれた。ぶたれた。張りついた笑顔が気持ち悪かった。
 ――おかあさん。
 このひとの料理が嫌いだった。食卓という言葉が苦手だった。三色を使った美しいお弁当なんてつくりたくなかった。
 ――おかあさん、おかあさん。
 母親ってなんだろう。愛情ってなんだろう。自由ってなんだろう。いなくなれって何度も願った。死んじまえ、と心の中で罵った。何度も、何度も何度も。残酷な想像が軽々しくできたのは、その一瞬に立ち会う可能性があり得るなど考えていなかったからだ。でも、だけど。ずっと「でも……」が続く。理不尽と矛盾を繰り返しては噛み締め続け、彼女を失う悲しみにも、思い出を失えない憎しみからも解放されない。
 ――おかあさんおかあさんおかあさんってば!
「死ねば許されると思うなよ」
 憎い。憎たらしい。嫌い。大嫌い。苦しい。捨てたい。切り離したい。でもできない。細くても必ず繋がっている縁を切り落とす覚悟なんてない。だってわたしは、おかあさんに会いたくなかった。このひとの変わり果てた姿を、心に残すなんてしたくなかった。
 母の瞼がぴくりと動いた気がした。りょうちゃんが、わたしの手を握った。帰ろう、そう言ってくれたことが合図になり、病室を出た。素早くエレベーターに乗り、あっという間に外に出た。首筋を、ひやりとした風がさらった。
「りょうちゃんは、恋人のところに帰るの?」
「そうだね、話さないとね。まあ、最初から論ずる位置がちがうからな、どうなるのかはわかんないけど」
「そっか」
 ざり、ざり、コンクリートを擦るように歩きはじめる。
「あのさ、同居人はメシつくってないんだ」
 歩きながら見上げたりょうちゃんは、何度見ても傷だらけだった。
「俺がいつもつくってる。丼ものとか、野菜炒めとか、茶色のやつ」
 ふと笑ってしまう。「今度教えたげるよ」と茶化すと彼は満更でもなさそうに、くっと肩を揺らす。最初と同じ、揶揄じゃない笑いかた。
「俺、ほんとうはあんたがつくるメシ好きなんだ。きれいだなって思ってた」
「まじか、あんだけ文句言ったくせに」
「ごめん、八つ当たり。あいこってことで」
 まじかよー、とあおのいてわたしは空に向かって口を開ける。冷たくて渇いた、秋の終わりの味がした。
「りょうちゃん、ありがとうね」
 りょうちゃんは首を振り、わたしを見下ろした。傷ついた瞼も眉も、すべてが痛々しい。
「大丈夫だよ。なんかあったら、いつでもうちに逃げてきて。わたしはりょうちゃんのよるべになるから」
「はは、よるべって。チョイスが渋いわ」
 と言いつつ、やっぱり満更でもなさそうだ。
「あんたもね、大丈夫だよ」
「そうかな」
 歩いていると、視界からりょうちゃんが消えた。振り向くと、彼は立ち止まっていた。
「なあ、ふつうってなんだろうな」
 一瞬、口を閉じる。ざあっとした空気が、夜の気配を引き連れてくる。
「ごめん、わたしもわからない」
 でも。わたしは顔を上げた。
「もしかしたら、なにかに縛られることが不自由ってわけじゃないのかもしれないね」
りょうちゃんは、黙っていた。
「個人を縛るものを自分で選ぶ自由が、あるんだと思う」
 重くて痛そうな瞼を、彼はゆっくりとまばたかせる。
「ふつうって言葉がりょうちゃんを縛るなら、べつにいいじゃん。わたしもあのひとの呪いは消えないけどさ、茶色い弁当つくっていいんだってわかったから」
 無理矢理消し去る必要なんてない。今すぐ身近なだれかに救われなくたっていい。だれかを救うとか救われるとか、そんな傲慢さを持つより、よるべでありたい。
「りょうちゃん、コンパのとき、『わかる』って言ってくれてありがとう」
「言ったっけ? 覚えてねえや」
「ひど」
「俺も、『いいじゃん』って言ってくれてありがとう」
 わたしは首を振った。
「今度、すっげえジャンクなもん食いに行こう。手はじめにファミレスな」
 チーズハンバーグ、チョコレートパフェ、ひとつひとつメニューをつぶやきながら互いに距離を取る。ポテト、ピザ、ハンバーガー、数メートル離れて、りょうちゃんに手を振った。
 彼に背を向け、一歩二歩とあしたに向けて歩き出す。

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