「わからないから面白い」という意見を持つ人に対し、かつて私は理解を示すことができなかった。「わからない」と、不安になる。だから絶対的な、再現性のある、定量的な説明が欲しかった。そういう浅い理由で、理系の進路を選択した。試験管の中でフランス革命は再現できない。電気泳動で十字軍を遠征させることはできない。一方で、物体の運動は、物質の生成・変化は、一定の手順に従って説明できる。そう思っていた。
しかし、逆説的な話だが、理系の勉強を進めるにつれ、必ずしもそうではないと思うようになった。
ここからいえることは、我々は認知負荷を軽減したいということではないだろうか。世界が複雑すぎる故に、我々は物事を過度に単純化したがるのだ。世界を極めて簡単な、ほんの数個の本質で示すことができたら、それほど気持ち良いだろうか。しかし、それはほぼ不可能なのである。私たち一般庶民は、かつて創世神話で世界を解釈した。日本では国生みの神話、西洋では天地創造、そしてその他のあらゆる地域には創世神話があった。いま私たちは、科学をもってして創世神話の代用とし、世界を理解した気になっているのではないだろうか。科学は我々を安心させるだけのモノに成り下がってしまった?
「わからない」は、怖い。それでも、この性質から離れ、「わからない」世界をそのまま理解できたら、世界はどのように見えるのだろうか。
それはおそらく難しい。人間が認知できる範囲には限界がある。そんな言葉も、どこかで聞いたことがある。今は、安心を求めるのではなく、純粋な興味で、理系の学問をしよう。そんなことを思った。