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#6食目 家族と食べればどんなご飯もご馳走に変わる

あんたいい人おらんの?

いるよ。
年下なんだけど私よりずっとしっかりしていて、仕事も家事もテキパキこなして、私にはもったいないくらい素敵な彼女がいるんだよ。

何度何度もこの言葉を飲み込んできた。

我が家は結婚至上主義。
帰るたび、電話のたびに問われる恋愛に関する質問は、仕事よりも結婚が大事なんだと言われているようで、私はいつも憂鬱だった。

そうは言いつつも、家族とは仲良し。
これまで何不自由なく暮らしてこれたのもお父さんとお母さんのおかげだと理解している。
受験や就職、転居に至るまで節々で支えてもらって感謝してもしきれない。
だから、2人の望む幸せの形を見せてあげることが最高の恩返しなんだろうということは子供の頃から容易に想像がついた。

自分の気持ちに蓋をし始めたのは、いつからだっただろう…。
なかなか早いタイミングから違和感は感じていたけど、それに目を向けることが怖くて、"普通の女の子"と言われるものを全うしようと努めていた。

それなりに恋人もできたし、結婚や就職のことも考えるようにして過ごしていたけれど、どうしても"普通"になりきることは難しくて、好きになりきれない恋愛ばかりを重ねては、自己嫌悪を繰り返していた。

気持ちを押し殺していた理由を、周りのせいにばかりするのはどうかと思うが、正直なところ環境要因も大きいと思っている。

私は商業施設も少なく、遊ぶ場所も限られてるような田舎ですくすくと育った。メインの遊びといえば、友達と集まりだらだらと話すことぐらい。そんな環境で育つと人間関係は避けられない。
近所の○○ちゃんは〜〜なんだって、隣のクラスの○○くんは〜〜らしいよ、なんていう噂や陰口の類は、日常の大半を占める話題だった。
狭いテリトリーの中での生活。学校の友達から近所のおばちゃんに至るまで、いつどこで誰が見ているか分からない状況。何か見つかろうもんならスピーカーの如く情報が発せられる。拡散機能がある分、監視カメラよりよっぽどタチが悪いと思う。
だから、いかに"普通"に過ごせるか、仮に自分が話題にされるとしても良い噂でありたいと常々考える日々だった。
そういった田舎特有の人との距離感が成長過程で刷り込まれていたので、誰の餌食にもならず楽しい毎日を過ごすためにも、私は"普通"というものに異様に執着していたと思う。

結局、学生時代のうちに自分の気持ちに目を向けることのないまま、私は社会人になった。

就職と共に都内で一人暮らしをスタート。
平日は仕事・休日は疲れて寝続けてしまうことも多く、
人と関わるのは仕事の時だけ、なんて日が増えた。
学生の頃と比べると人間関係がぐっと淡白になった。
東京はどこもかしこも人が多いから、人混みに紛れていると、まるで自分が存在しないように感じることができた。
田舎特有のネットワークの狭さから解放されたような感覚で、私にとっては心地の良いものだった。(後に仕事がどんどん忙しくなって本当に自分を消したくなった。笑)
仕事の話もまた追々。気分が乗ったら書こうと思う。

忙しない日々を送ることで救われていたことが1つ。
自分の気持ちに向き合わずに済んだことだった。
変わらずの親からの期待に対して、仕事が忙しいという理由が付けられるのは幸いだった。

そんなこんなで過ごしていた私だが、後に職場への不満が爆発。
心を無くさないうちに判断をしなくてはと、次の仕事も決めないままに転職を決意。
自分の思い描いていた未来とは大きくかけ離れた人生を送っていたので、結婚や出産、新たな仕事のことも含めて改めて今後の人生設計を考えてみた。
たくさんたくさん考えてみた。
だけど、どんなに考えてみても"普通"の幸せの中で過ごしている自分の姿は想像がつかなかった。

仕事を辞めると決めて、知らない人で溢れかえっているこの土地で、何を気にする必要があるだろう。
就職して2年未満での自己都合の退職、すでに思い描いたような人生は送っていない。"普通"ではない。
だけど、辞めることになってとても気分が良い。
今まで何に執着してきたんだろう。
もっと自分のやりたいことやろう。
そんな風に考えて、唯一蓋をしていた感情に向き合った。
当時は仕事を辞めることで気持ちがハイになっていたと思う。踏ん切りがついたことで何でもできる気がしてた。まだギリギリ20代前半というのも動けたポイントな気がする。

思い立ったら即行動できるのは自分の好きな所。(笑)
周りに頼れる人もいないまま、手探りで始めたSNS。
専門用語も分からなくて恐る恐る話しかける期間があったりもしたけど慣れると心地が良かった。
自分だけじゃないという安心感が嬉しくて、どこよりも落ち着く場所が見つかった気がした。
私が求め続けていた"普通"ってなんだったんだろう。
小さな小さなコミュニティで、結婚至上主義を唱えられ続けて育った私からすればなんか一回死んだぐらいのレベルで考えが変わって衝撃だった。

もちろん、後に恋もした。一番気にしていた部分。
すると毎日がキラキラし出した。
初めて自分の感情に素直になれた気がした。
私もちゃんと人を好きになれるんだって分かったら、肩の荷がおりて一気に楽になった。
私にとっての"普通"がようやく見つかった。

そんな楽しい日々を過ごす中でも、実家に帰ると一気に現実に引き戻された。
やっぱり出てくる結婚の話。表面上はこれまで通り、理由をつけてはのらりくらりとかわすものの、内緒にしていることが大きい分、心がギュッと押しつぶされる感覚を覚えた。
大好きだったはずの実家が居心地の悪い場所になってしまった。

その後、帰省してはモヤモヤするという気持ちが続く中、コロナウイルスが流行し始めて、私は大好きさんの家に転がり込んだ。
在宅での仕事も増えて、ほとんどを一緒に過ごすようになった。
この先も長く一緒にってそれまでも考えていたことだけど、過ごす時間が増えるほどに気持ちが増した。

同時に、家族の大切さを考える期間にもなった。会えない日が続く中でも、気にかけて連絡をくれるお父さんとお母さん。いつか歳を重ねて、特に問題や事故がなければ、必ず私より先に寿命がくる。
私の花嫁姿を、家族を、孫を楽しみにしているであろう2人にこのまま伝えないでいいんだろうか。
私の勝手なわがままだけど、やっぱり家族には本当のことを知っておいて欲しかった。
今が幸せなんだってこと、これが私なんだってことを。

だけど、話そうと決意して帰っても、いざ2人を目の前にすると喉の奥につかえて言葉が出てこなかった。
何度も何度もイメージした。今度こそ、次こそは。
言えずに終えた帰りは電車の中でちょっとだけ泣いた。
犯罪を犯しているわけでもないのに、何でコソコソしなきゃいけないんだろう?
隠さなきゃいけないようなことじゃないのに何で話せないんだろう。
とてもとても悔しかった。
そんなに簡単なことじゃないのは分かっていたけど、こんなにもハードルが高いのか。どうすればいいんだろう…。

絶縁も覚悟で言おうとしていたけれど、
内心はやっぱり受け入れてほしいって思いでいっぱいだった。

言おうとしてから、何度目かの帰省。
年初めのタイミング。
家族全員集まって夜中までボードゲームをした。
そろそろ寝ようかってタイミングになって、お母さんだけ洗濯物をするとリビングに残った。
これがチャンスだと思った。

ねぇ…まだ結婚して欲しいって思ってる?
そんな切り出し方をしたと思う。
少し結婚についての考えを話した。

そのあと一息ついて、
目頭が熱くなる感覚を感じながら、
本当に伝えたかったことを話すことにした。

口にした瞬間、少し力んで声がうわずって、目から涙が溢れ出した。
だけど言葉を止めるのが怖くて、話し続けた。
お母さんは最後まで何も言わずに聞いていて、一区切りついたところで、話してくれてありがとう。といつもの優しい声で言ってくれた。

怒ったりしている様子も、驚いたりしている様子も声色からは伺えなかったけど、まだ顔を見るのが怖くて、顔を下に向けながら泣いていたら、側にきて、幸せならいいんだよ大丈夫だからねと言って抱きしめてくれた。
受け入れてもらえた安堵感から涙が止まらなくなった。

それからひとしきり泣いて、落ち着いてからまた話をした。
お母さんからは、
私が姉達とは違うだろうなと感じていたこと、
先の長い人生で結婚という形でなくても誰かと生きて欲しいと思っていること、
最終的にどうであれ私の幸せが1番だと考えてくれていることを聞かされた。(また泣いた)

もう一つ気にしていた、お父さんのことについては、朝一で話しておくとのことだったので、お願いすることにした。(次の日、私が帰る日で時間がなさすぎた)

翌日、お父さんには伝わっているものの、姉達もいて話す機会がないまま帰る時間となってしまった。
少し早めにお父さんとお母さんと3人で駅に向かうことになり、車に乗り込んだ。
家を出発して間もなく、私の方から直接伝えられなかったことに対してごめんねと伝えた。

お父さんはどちらかと言うと寡黙な人で、
どう思っているのかを聞くのが怖かったんだけど、
気持ちの面は仕方のないことだと思うから気にしなくていいし、人を好きになることは素敵なことだよと話してくれた。
そして、これからは気兼ねなく帰ってきて欲しいということ、
変わらず娘であり大事であるということ、
何かあれば頼って欲しいということを伝えてくれた。

もう涙で顔は原形を留めていなかったんじゃないだろうか。
2人の子供でよかったと心底思った。

散々求められ続けた結婚の話も、孫の話も、
2人からしたら私が将来1人きりで困ることのないようにと思っての親なりの心配事だったと分かっていたけど、私としては2人の期待する形で応えることができない自分に後ろめたさを感じていたし、そこに生きにくさを感じていたのは仕方のないことだったと思う。
その事実は変えられないけど、これから先のことはいくらでも変えがきくから、2人には安心してもらえるように、自分の選んだ生き方で目一杯幸せになろうと思う。
それがまずは最低限の恩返しだと思うから。

今では大好きな人と一緒に暮らしていて、
お父さんもお母さんもそれを知っていて、
毎日とても楽しく過ごせている。
実は姉たちにはまだ言えていないので、
そっちはゆくゆく伝えていく予定。

10代20代前半と仕事に恋愛にくすぶっていた私には、
あと少し生きてみたらすっごく楽しいよ!もう少しだけ頑張れ!と伝えてあげたいな。

こう言ったお話は、
必ずしも家族に話すべき内容かと言われたら
最後まで隠し抜くことも時として必要だと思うし、
周りの友達も然りで、まだまだ見極めが必要な社会だけど、
いつか、いつか何も気にすることなく、誰でも気兼ねなく話せる日が来たらいいなと思う。
そんな日を生きているうちに拝むことができたら、
きっと嬉しくて泣いちゃうんだろうな。

そのために私にできることなんて特にないんですが、
まずはここに、話せた記念を一つ。
印として残しておくことにします。

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いつか書きたいと思っていた、
両親へ伝えたときのお話をまとめてみました。
書きながら泣いてしまうぐらいあの時の映像は鮮明に覚えていて、人生のトップ3には確実に入るであろう出来事だと思います。

言えたことが正しいとかそういう話ではなく、
受け入れてくれる人もいるんだなという、
前向きな部分を残しておきたいなと思ってのことです。

自分を押し殺して、結婚して、子供を産んでという、
そういう選択肢も無かったわけではないです。
むしろそちらの道に進むだろうなと考えていた期間の方が長いです。

何が幸せかは人それぞれだと思いますが、
私は今の暮らしが大好きで、とっても幸せです。
自分がした選択についてよくやった!と、自分を褒めたいです。
10代20代の頃の私のためにも、この先の人生を目一杯楽しみたいと思います。

そして、1日でも早く、同じ思いをしている人たちにとって明るく幸せな未来が訪れますように。

最後までお読みいただきありがとうございました。
それではまた。





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