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「人生を面白くしないと」という呪い

僕は世間一般から見ると意識の高い人が多い業界に身を置いていると思う。ここで言う「意識が高い人」は「社会を良くしよう」「新しい価値や事業を生み出そう」「人のネットワークやコミュニティをつくろう」などという志向を持っている人のことを指す。

意識の高い方々は総じて人生に向かうエネルギー量が高い。"面白い"と思ったことはすぐ始めるし、"面白い"人とつながって話をすることが好きなのだろうなと思う。

一方、僕は人生に対するエネルギー量が低い。誤解を恐れず言うと、いつこの世から消えてもいいと思っている(「いつ死んでもいい」とは少しニュアンスが違う。死ぬ間際の苦痛は感じたくない。あくまで消えたいのだ)

「意識の高い人は"面白い"が好き」と書いたが、僕はそもそも人生で"面白い"と思えることがあまりない。好奇心がない。家の中でじっとしていたい。なるべく省エネで人生100年時代を逃げ切りたい。
意識の高い方々が爆速のF1カーならば、僕はプリウスだ。ヒュイーンという独特の鈍い音を鳴らして日々嫌々家を出ている。


意識の高い彼らが言う"面白い"が分からないことがよくある。如実に価値観の違いを感じる。彼らの口から"面白い人に出会った"というセリフをよく聞くが、正直あまりピンとこない。文脈から推測するに"面白い人生やキャリアを歩んでいる人に出会った"という意味のようだ。
ちなみに僕が人生で一番笑った人は小島よしおである。奇声をあげて飛び回る海パン一丁の男を笑わないで他に何で笑うというのか。

誰かが誰かを"面白い人"と定義したとき、同時に"面白くない人"も定義される。彼らの論理でいくと"面白くない人"は"面白い人生やキャリアを歩んでいない人"ということになる。そこまで意地悪なことを考えている人はいないだろうが、ふとそこまで考えが及んでしまう。

先ほど述べた通り僕は省エネプリウス男である。僕は彼らにとって"面白くない人"なのだろう。"面白い人"が定義されることで"面白くない僕"は勝手に疎外感を感じている。息苦しい。早く車庫に戻りたい。

コメディとしての面白い・面白くないの評価は作品(コントやギャグ)の中で完結するが、彼らが言う面白い・面白くないは個人の人生の在り方に言及している点で言葉の持つ威力が大きい。被害者意識の強い僕は、勝手に人生を否定された気分になる。

なぜ僕は彼らの面白い・面白くない価値観の中で生きているのだろうか。
彼らの土俵(=業界)で相撲を取っているからだろうか。
同じ土俵にいるからといって、価値観を同質化する必要があるのだろうか。


やれSNSを覗けば、華麗な経歴と充実した近況を全世界に公開している人が本当にたくさんいる。大量に並んだF1カーのエンジン音と煙が、僕の目と鼻をつん裂く。

「これが人生の在るべき形であり、全員が目指さないといけないゴールである」と言わんばかりだ。
「面白い人生を歩まないといけない」「人生が楽しく充実しているものでないといけない」という呪いが世の中に影を落としている。


自分の価値基準で自分の人生を面白いと思えるようになりたい。その方が健全であり幸福度も高いはすだ。世に言う「自己肯定感が高い」という状態はそういうことを言うんだろうなと思った。

そもそも「人生を面白く」というのもひとつの価値観でしかない。極端な話、人生を面白くする必要もない。それすら個人の自由意志である。「面白くしないといけない」と考えた時点で呪いに囚われることになる。


まずは自分の中にある考えや周りにある好きなものをひとつずつ確認していくことが大切な気がする。自分の輪郭をなるべく正確に捉えることができれば、自分の価値基準で自分の人生を決めていけるようになるのではなかろうか。

プリウスの「ヒュイーン」が少しでも軽やかな音になるといいな。












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