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法学部には大学ごとに学派が存在する。

 タイトルの通り、法学部には大学ごとに学派が存在します。より正確に言えば、大学教員がそれぞれ自身の支持する説をもっています。例えば、同じ刑法の先生であっても、行為無価値論者と結果無価値論者に分かれています。

 行為無価値論とは、犯罪行為の違法性の実質を行為の反倫理性に見い出す立場であり、結果無価値論とは、犯罪行為の違法性の実質を当該行為による法益侵害・危険の惹起に見い出す立場です。
 端的に申しますと、犯罪(殺人罪)が違法であるゆえんを、「人を殺す」という「行為」だと考えるのが行為無価値論、「人が死んだ」という「結果」だと考えるのが結果無価値論です。

 通説的見解は行為無価値論とされている一方で、結果無価値論もかなりの有力説です。それゆえ、同じ刑法の先生であってもどちらの説を推しているのかが分かれるのです。

 そして、先生ごとに採る説が違うため、同じ名前の授業であっても、それぞれ授業内容が変わります。

 最近は、自説しか説明しないという先生は減ってきているようで、他の説ひいては通説的見解を学ぶことができないといったことは少なくなっているように思えます。
 しかし、そうは言っても自然と推し説については長く深く説明したくなるようで、やはり授業内に先生の自説の色を強く感じることはよくあります。
 ゆえに、試験時も先生の推し説で論述すると、単位が取りやすくなるという話もしばしば耳にします。

 ところで、高校生の方の中には同じ法律学を学ぶのにそれぞれの大学・先生で学習内容が異なってよいのかと疑問を持たれるかもしれません。
 実際、入学直後は私もそう思いました。しかし、よくよく考えると高校までの内容も学習指導要領によって通説的見解のみ学ぶよう定められているにすぎず、それゆえ他説を検討していなかっただけなのです。

 具体例を出すと、鎌倉幕府の成立時期について、最近こそ1185年とされることもありますが、私の時代だと1192年で覚えることとして統一されており、それは他説(1185年説)を検討していなかっただけなのです。

 このように、世の中全てが1つの見解で決まっているわけではなく、ゆえに、学習指導要領がない大学は、通説以外の様々な見解を検討する場であるわけです。

 そして、法学部におけるその状況ははるか昔の明治維新の頃から存在していました。
 開国によって大陸法(フランス・ドイツ)と英米法(イギリス・アメリカ)という2つの考え方が流入し、大学もフランス法学系の明治大学・関西大学、イギリス法学系の中央大学・専修大学といったように分かれていたのです(学派の大学は一例、大学の名称は現在のもの)。

 このように、法学部では、大学・先生ごとに色々と学派があり、それによって授業内容も異なり得ます。それならば、法学部を志望する場合、大学の学派も気にかけた方が良いかという疑問が生まれるかもしれません。

 このことについて、あくまで私個人としては気にする必要はないと思います。
 なぜかと言うと、これは憲法改正や特定の犯罪(性犯罪・飲酒運転等)の重罰化の賛否といったニュースに親しんでいれば分かるレベルの話ではなく、非常にアカデミックな話です。
 ゆえに、法律学の未学者がすぐに分かるほどのものではないからです。

 それに、とある説(A説とする)を採る先生が多い大学に入ったからと言って、B説を主張することが禁じられているわけではありません。

 それゆえ、すでにかなりの「法律オタ」であり、確固たる自説があって同じくその説を説いている先生の下で学びたいという位の人でない限り、大学選びの検討材料にする必要は全くないと思います。


冒頭写真:pixabay(2023/4/22)

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