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思いやりの心。

 法学部に入って考え方が変わったこと、いや確固たる考えをもつようになったのは思いやりの心がとても大切だということ。法学部が思いやりとかいうと、変に思われるかもしれない。裁判で白黒つける法律を学んでいる学部だから。しかし、私はそんな帰結にはならないと思う。法学部で法律という人間味なさそうなものを学んでいるからこそそう感じるのだ。

 昨今の状況になって久しいがこのような状況になってからずっと気になっている論争がある。それはマスク着用義務の有無の論争だ。ここで、よく論点にされるのは法律上の拘束力の有無だ。知ったかぶる人は法律上の義務があるとかないとかを根拠に論を展開する。
 しかし、私としては正直無意味な議論でしかないと思う。法律上の義務があるからお前もマスクを着用しなければならないとか、それがないから着用しなくても俺は悪くないとかそんな議論なんてしょうもないと思ってしまう。肝心なのはマスクをつけることのメリットとデメリットの話だろうに。
 まあ、私は人と会話したり大通りを出歩いたりするときは着用するようにしている。自分が感染しているのかどうか分からないから。法律上の義務があるからないからではない。ただ誰かをできるだけ傷つけたくないと思ってそうしているだけ。
 そして、中には心肺機能が弱くてそうはできない人もいるだろう。そういった方を尊重しようとも思う。

 おそらく意外がられているのではないだろうか。法学部生なんて頭でっかちだから感染症云々法のようなものを持ち出して話を展開するのではないかと。
 もちろん、そういった方向にもっていく人もいないことはないだろう。ただ私としては法律的な争いなんかにもっていかずとも思いやりの心で解決できるんじゃないかって思っているだけ。

 法学部なのになぜ法律的なバトルに持ち込もうとしないのか。それは、法学部で勉強して裁判まがいのことがいかに大変か知ったからかもしれない。
 裁判というのはおカネがかかる、時間もかかる、それに精神もすり減る。だから、できることなら裁判なんてしたくないものだ。(もちろん、裁判をせざるを得ない方を批判するわけではない。)同じように法律論も理屈の争いであるから、こんなことをしても疲れる。だから、みんなの少し思いやりがあればものごとうまく進むのになぁと思う。

 思いやり。究極的にはこれさえあれば世の中はうまく回る。なぜか。法律はトラブルになり得ることのみを規定しているから。つまり、トラブルになる可能性がゼロなら、それを規制する法律なんて必要ないのだ。
 具体例を出してみよう。世の中に「店員に威張ってはいけない法」なんてものはない。皆店員さんにひどい対応をしてはいけないって分かっているはずだから。こんな感じで当たり前を求める法律はない。

 そんな中、アメリカのように簡単に裁判が行われるような社会にすべきと説く人々がいる。しかし、私は反対だ。もちろん、裁判をすべき状況にあるのに、諸々の事情でそれができない人の、裁判をする権利は多分に守られるべきであり、その保護はしっかりとなされるべきである。しかし、一律に訴訟社会化させるのは私は好まない。先ほど述べた通り、裁判は大変だ。それなのに少しのことで訴え合っていたらお互い疲れやしないのだろうか。そんなことをしているのなら、少しずつお互いに歩み寄り相手のことを思いやった方が私はいいんじゃないのと思う。
 それに、訴訟社会化したら一番儲かるのは将来弁護士になるかもしれない法学部生である。うーん、語彙力がないのが悔しいが、漁夫の利といったところであろうか。まあ、そんな漁夫になるかもしれない私が言っているのだから、少しは説得力があろう。(そもそも、お前さんが漁夫になれるのかと言われそうだが。)

 こんなわけで最近思いやりの心が大切だと改めて感じるに至った。まだ社会に出ていない若造だからそんなものだけで世の中どうにかなると思っているんだろうと怒られそうな気がする。しかし、私は、法律があるから問答無用でOOしてはいけないとか法律がないからOOするのは個人の勝手だとかいう窮屈な社会になってほしくない。
 法学部生たる私の中の、理想であり当たり前のことは忘れずにいたい。本来法律って思いやりの心があってもどうにもならないときだけ使うべきなんだよ、と。

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