人間の本質的な冷酷さ 映画『ミッシング』感想

『ミッシング』という映画を観た。

人間は怖い。この映画を観て痛感したこと、それは、ただ“現実”であること。
何が起こるかいつ後悔の念に苛まれるのか。
間違った認識から愚か者として吊し上げられるのか。

「こんなことになるなんて。」
それぞれの苦悩をリアルに映し出しているのが𠮷田恵輔監督の作品だなと思った。
娘が行方不明になってしまった当事者と、報道の人間含む第三者との温度感に心が突き刺された。涙が流れるというよりも、喉が詰まるような感覚。
匿名の誹謗中傷、善意かと思えたイタズラのDMや情報提供。身近に潜んでいる悪意が苦しく感じる映画だった。

『ミッシング』の情報が公開されたとき、絶対に観ようと思った。カレンダーに公開日をリマインドして、毎日のように公式アカウントやメディアで公開される情報をかじりつくように見漁った映画はいつ以来?もしかしたら初めてかもしれない。
石原さとみ主演ということにも、𠮷田恵輔が監督なことにも惹かれる映画。絶対に面白い。絶対に心から震える映画だ。と直感で感じた。

『空白』の𠮷田恵輔監督の描く人間の本質的な冷酷さは、咽び泣き必死に僅かな希望にすがり翻弄される当事者。そして執拗に浴びせられる心無い言葉や、ときには忘れ無関心である第三者から、映画の世界ではなく、どこかで同じようなことが起こっているということを改めて自覚させられる。映画の世界観というよりも、事実として引き込まれる。
プロデューサーは同じく『空白』、そして『月』の河村光庸プロデューサー。納得の作品、期待以上の完成度だった。

現実にもこのような事件があり苦しんでいる人がいるということ、苦しんでいる人を面白がる人がいるということ。もちろん、他人を憎む感情や蔑む感情は当たり前に存在する。それがぐちゃぐちゃになって怒りとして表面に現れる。他人にきつく当たったり。人目を気にせず叫んだり。泣いて縋ったり。失禁してしまったり。
感情のままに起こされる行動が、孤独で、どうしようもない、通常ではない精神状態を、より一層際立たせる。

沙織里の憎しみの感情は、娘探しに温度差がある夫に。行方不明前に最後に会っていた弟に。話題としか思っていない記者に。捜査状況に進捗がない警察に。何も知らないのに好き勝手に誹謗中傷する誰かに。あらゆる方向へと向かうが、何よりも自分へ強く向いていた。

誰も幸せにならないのに、どうしても人間は負の方向に強くエネルギーを向けてしまう。夫婦であっても。姉弟であっても。捜索協力をしてくれている人々であっても。
そして娘を愛している自分に。

類似の行方不明事件の解決にビラ配りをして協力し、発見された際は「良かった」と泣く沙織里。これは同じ母親としての涙。
ビラ配り中にその親子が礼を言いに来るシーンでは今まで沙織里を支え、なだめることが多かった初めて夫・豊が初めて涙を流す。こちらも涙が出るような、父親としての涙。
怒りや必死に懇願するといったエネルギッシュな涙が多い映像の中で、親という立場での温かい涙だったのではないかと感じた。

この映画は失った我が子を探すだけではなく、密着取材をする記者・砂田の苦悩も描かれている。人として、真摯に向き合いすぎて肩を入れ過ぎてしまう。仕事として、どうしても映り方や視聴者が興味を持つ方向へ偏ってしまう。
そこに疑問を抱く沙織里や豊とぶつかり、同期の出世を横目で見て、犯人かわからない人物を撮ることに「もう、こういうのやめにしませんか?」とだんだんと報道とは何かを見失っていく。最後、川辺で撮れるかも分からない視聴率もとれるのだろうかというアザラシを撮影しようとしている姿には、理想を追い求めすぎてしまった砂田の諦めを感じた。

この映画では時が止まっていた人が進んでいく様子が描かれていると感じた。「生きる」ということは、止まってはいけないということだと。
スクープを狙うことを諦めた砂田も、歯切れの悪い返事をしたりデスクで怒鳴られ泣いたりしていた記者・杏も報道キャスターとしてテレビに映る。
そして誹謗中傷を訴えるように弁護士に相談しに行く豊、交通安全のボランティアに参加する沙織里。
『空白』と同様に、人物のバックボーンはほぼ描かれず、“今”が映し出されていて、人生がビデオテープのような形なら、本当にその部分を切り取っているようだった。

また、私が注目したのは車内のシーン。意図的ではないかもしれないけれど、夫との車中は無音。弟との車中ではラジオが流れていたが、無音の車中よりもヒリついているように感じた。気まずさからのラジオ。怒鳴りつけたあとの無言の間を、怒りを逆立てるように流れるラジオの音が、夫との社内と対比的に映っていた。皮肉なことに娘が行方不明になったときにライブに行っていたアイドルの曲が流れる。
「・・・もう、笑うしかないわ。」
謝られても、責めても娘は見つからない、という喪失感が苦しかった。

恐らくこの映画では行方不明になった娘は帰らないものとなったと誰もが感じるだろう。自宅の壁に描かれたラクガキに虹がかかる。
それでも、何カ月経っても諦めない、諦めてはいけない。それは「親」であるからだと、「親」にとって子は子でしかなく、代わりなど居ない。誰もが興味を失ってしまっても。忘れてしまっても。

数年前に一度考えたことがある。
「もし親になって自分の子どもが行方不明になったとしたら、何カ月も何カ月も探せるだろうか。子どもの帰りをずっと待てるだろうか。ずっと発見されなくても姿を見ないかぎり何年も諦めずにいられるだろうか。」
ツイートして、すぐ消した。
こんなこと言葉にしてはいけないし、思ってもいけないと思ったから。

こんな石原さとみなんて見たことがない。誰もがそう思う作品だったと思う。
公式がアップしている動画を見るだけでもわかる。特に砂田の車を追いかけ縋り泣く顔はあまりにもショックだった。
ビラを配る必死な顔、パソコンにのめり込み苛立つ顔、夫を睨む顔、弟に怒りを向けるときの顔など。あんな鋭く醜い目つきができる人だと思っていなかったからとても衝撃的だった。
ただの悲劇のヒロインとして綺麗に描かれるわけではなく、「母親」(もちろん『そして、バトンは渡された』のキラキラした母親ではなく一般的な母親)として描かれていて、中村倫也のインタビューで「さとみちゃんがあれだけいろんなものをすり減らしながら沙織里をやっている」と表現していたように、今までのイメージを払拭し、今までのイメージを払拭し、ステップアップする映画になるんだろうなと感じた。

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