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私のなかの水と、水のなかの私。

彼女のように世界の機微を見つめ続けたら、自分は間違いなく死を選ぶだろう。それがテムズ川への入水でなかったとしても。

そう思わざるを得ない展示だった。



この世界を廻すのに、なんら必要のない人の作為、自然の現象。
それらの微々たる動きを、狂いなく確実に捉える繊細さと、タフネスな精神力。その2つを持ち合わせているのがロニなんだと感じた。

ポーラ美術館にて。2021.11.05



水と聞いてイメージするものはなんだろうか。

水道水であるかもしれないし、雨であるかもしれない。
はたまた海や川、湖畔かもしれないし、プールの水であるかもしれない。

僕の場合、イメージしたのはコップに入った水だった。
水面にただ1つの揺らぎもなく、コップの中の世界は常に凪いでいる。
手に取ると、わずかな揺らぎがコップの中を騒ぎ立てるが、次の瞬間、水は僕の口元を分け入って、喉元を通って僕の中に落ちていく。


自分の中の水を想像した。生きるための水だ。僕がこうして文章を書いていくため、呼吸をするため、思考するための水。




だが、この展示を見終った時の水のイメージは、いびつな入射角を伴った褐色の濁流だった。しかし中に入るとそこは茶色ではなく、真っ黒なのだ。絶対的な無に帰る自分を想像する。

無を孕んだ水。自分が何もできなくなるための、世界と自分を遮断するための水。



水と聞いて想像した水は、あなたの中にある水だろうか。
それとも、あなたを取り巻く水だろうか。




https://imaonline.jp/articles/interview/20211026roni-horn/#page-1より


彼女の写真でとりわけ自分の記憶にこびりついたのは「円周率」だった。
一見、なんら関係のない写真たちを、ただ同じ高さで四方に掛け並べたかのような構成なのだが、どこかで点と点が結びつくポイントがいくつかある。

テレビ画面、剥製の動物、水平線、ある男性と女性。

アイスランドの土地が、世界のすべてを内包しているように感じるほど、ロニが撮影した写真には普遍、不朽を感じる。


希望、優しさ、明るさ、暖かさ、虚しさ、ニヒルな見方。

そういった感情から生まれる写真の枠からは少し逸脱した、ただそこにある視覚的な情報。

感じとるものをこちらに委ねられているようで、彼女の眼差し、揺らぐことのない機微を植え付けられる。そんな展示だった。



ポーラ美術館の展示は2022年3月30日まで。



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