Feel the fear of
前日はなかなか寝付けないまま、3時に就寝したからか、流石に5時に起きることはできず、翌朝は6時30分の目覚ましで起床した。
空の色はすでに白んできており、日本製鉄所の工場の方面は朝焼けと夜空がぼんやりと滲んでいる。湯沸かしポットに水を入れて沸騰を待つ間に、浴槽にお湯を溜める。
特急くろしお1号は8時48分に和歌山駅を発車する。起きて早々に指定席を予約した。朝1番に大浴場でサウナにでも入りたい気持ちだったが、流石に時間がそれを許さなかった。
ホテルのパジャマを脱いで、少し熱めの湯に浸かると、冷えた体がじんわりとほぐれていくのが分かる。汗が滲んできたところでシャワーを浴びて、厚手のバスタオルで濡れた髪と体を包み込む。
ふう、と息を大きく吐いた。数時間前に行き先を決めたことが嘘のように思えてくる。
グリースで髪を整えて、下着以外は昨日と同じ服を着て身支度を整えた。ふと窓の外の景色に目をやると、すでに冬の陽光が街全体を照らし始めていた。
特急くろしお号の乗車率は思ったほど高くなく、乗客もまばらだった。前日夜更かししたせいか胃もたれがきつく、朝は水とかやくおにぎりだけ食べて一眠りつこうと目を瞑った。しかし、体が完全に覚醒しているからか、結局到着まで寝付けることはできずじまいであった。
仕方なく携帯を取り出し、この後の予定を確認した。紀伊勝浦駅から那智山への交通手段はバス。熊野御坊バスの時刻表の画像を保存して、紀伊勝浦駅の到着時刻と照らし合わせる。到着時間は11時40分。一方バスの出発時刻は11時45分。うまく乗り換えることができれば間に合うかもしれないが、次の便は12時25分。5分での乗り換えは諦め、その間に昼食ととることにした。
調べてから知ったことだが、那智勝浦は延縄漁による生まぐろの水揚げ量が日本一の港らしく、調べるとまぐろ定食や海鮮丼がずらりと出てくる。いつものようにグーグルマップでまさしく目星の店に星印をつけていった。
時刻通りに紀伊勝浦駅に到着した。駅から出ると、ほのかではあるが潮の香りが近くにある海を感じさせる。念のため、バスのロータリーで時刻表を確認したのち、メインストリートであろう通りを進んでいった。
その通り沿いに「竹原」という有名なごはん処があるが、すでにそこには並ぶ列ができていた。一度は並んだものの、このまま待ち続ければ次のバスに間に合わなくなってしまう。冷静に考えて、グーグルマップでつけた星印を頼りに次の店の様子を伺うべく、さらに奥の道を進んだ。手の込んだまぐろ料理を提供している「桂城」という店だ。幸いなことにそちらでは並ばずに入店できた。カウンターに案内され、一考の末、無難なまぐろ定食を頼む。ほかにも魅力的な字面がメニュー表に所狭しと並んでいた。しかし時間の都合と、何より定番メニューではない冒険の品を頼む勇気が無く、自分の冒険心のまま心ゆくまで頼まなかったことを今でも少し悔やんでいるが、まぐろ定食はきちんと美味だった。
腹と心を満たし、きた道を戻り、駅前のロータリーにある乗車券売り場で往復券を購入した。那智山行きのバスの乗り、大門坂で降車するのに所要時間はおよそ25分ほど。
大門坂から熊野古道を通って山を登り、熊野那智大社、那智の滝を経て、バスで紀伊勝浦駅まで戻るルートを辿った。
生茂る背の高い常緑樹を切り分けて、一本の道を成す石段。数十メートル進んでは立ち止まり、至る所にレンズを向けて、シャッターを切っていった。気づくと体温は上がり続けていたらしく、ダウンコートの中は汗ばんでいた。想像以上に登山に近い運動量で、まだ履き慣れていない下ろしたてのジャーマントレーナーではなく、マグナムを履いて行けばよかったと今になって思うが、当時はそんなことを思う余裕もなかった。
ダウンコートを脱いで、膝に手をつき、一呼吸をおく。木々の隙間を通ってやってくる風が、トレーナーと肌着をも通り越して、火照った体から温度を持ち去っていく。心地良さを感じ、ふと目線を上げて、周りを見渡した。枝葉の擦れる音がそこらじゅうから聞こえてくる。再度足元に目を向けると、冬の太陽光が枝葉をくぐり抜けて、地面をゆらゆらと照らしている。きちんと光はある。
しかし、周りに人がいないその場所には、実態の掴めない、けれど紛れもない気配があった。白昼であるはずなのに、木々の隙間から感じる気配が、奥底にある畏怖の念を剥き出しにする。凛とした冷たい山の風が、ひとりの人間の温度を奪い去っていく。あまり長く留まってはいけないといった思いに駆られて、先を急いだ。
那智の滝に辿り着く頃には、登り降りの多い登山道で足に疲れが溜まっており、膝も少し震えが出始めていた。気づけば時刻は15時30分。大門坂を出てから2時間半ほどが経過していた。
紀伊勝浦に戻ってきた時、時刻はすでに16時。大阪に帰るためには遅くとも18時04分の特急くろしお号に乗車せねばならない。
残り2時間。ゆるりと浸かることはできないにせよ、前日夜から行きたいと思っていた温泉に行かずして、紀伊勝浦を去ることはできなかった。帰ることも忘れるほど心地よいということから、その名前がつけられた、「忘帰洞」である。自然が作り上げた洞窟の中に温泉があり、熊野灘を眺めることができるという。ホテル浦島の宿泊者はもちろん日帰りでの利用も可能だったため、どうしても行きたい温泉だったのだ。
ホテル浦島へのアクセスは少し特殊で、無料で往復している浦島丸という船に揺られて5分ほどで到着する。
日帰り温泉の手続きを済ませ、館内マップをもらった。ホテル浦島は、東京ドームおよそ4つ分の広さを誇り、忘帰洞のほかにも、玄武洞、ハマユウの湯、滝の湯、磯の湯と複数の温泉があるらしい。時間の関係上、忘帰洞しか浸かることができなかったが、いつかまた来る時には宿泊者として余すことなく、浸りたいと切に思う施設だった。
硫黄の薫りが漂う忘帰洞内部に入る。2月の夕暮れ時ということもあり、半露天形式の空間は、扉を開けた瞬間はいささか寒く感じたものの、シャワーを浴びてすぐに慣れた。温泉は乳白色に、エメラルドグリーンにも似た那智勝浦の海の色を少しだけ混ぜたような、綺麗な千草色をしていた。浸かり場は外気温との温度差で湯気を纏っており、その湯気は水面と付かず離れずの高さを漂っていた。
洞窟出口付近にある浸かり場にゆっくりと腰を下ろした。温度はやや熱めだと記憶しているが、外気温に慣れていた体だから、そう感じたのかもしれない。
海の方に目を向けると、波が想像以上に高く、岩肌を削ってこの洞窟を作ったことにも納得がいく勢いでこちらに迫ってくる。轟音とも呼ぶべき波しぶきの音は、洞窟の奥の方へと吸収されていき、まあるくやさしい音となって、まるでディレイをかけたかのように、少し遅れてこだましている。
時折、とりわけ大きな波が、自然と人工の境界となる柵にまで到達して、波しぶきが目の前で上がる。その勢いは、自分も含めた入浴している者が全員、やや引け越しになるほどであった。
向こうの浅瀬では波が岩礁にぶつかり、しぶきを上げており、さながら東映の「荒磯に波」のようだった。
波の勢いと音に慣れてくると、連綿と続く自然の引力に、時間の感覚が鈍っていく。さらに体が泉質にも慣れてくれば、まさに帰ることを忘れるほどの至福の時間が完成する。
1時間ほど湯に浸かって、ホテル浦島を後にした。
突然の思いつきから端を発した和歌山への小旅も、気がつけば大阪より4時間の紀伊勝浦にまで足を伸ばしてしまい、しまいには当初予定していた井出商店のラーメンを食べることなく帰阪してしまったのだが、当てのないひとり旅にはよくあることである。また和歌山に行くことがあれば、今度は友人ととも行きたい。
おわり。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?