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越後ブルーその2。


東京駅に着くと、すでにひとりが到着していた。自分よりも6つ年上の部下。

ここ最近は丁寧語が徐々になくなってきて、大丈夫だろうかと思いつつ、その関係性の流れに身をまかせつつある間柄。4人それぞれが個性を放ちつつ、チーム1番のバランサーかもしれない。

続いて気にかけていた社会人1年目の部下。最後に冥界のような東京駅で当然のように道に迷い、遅れてやってきた2年目の若手。4人揃った時、予想していたよりも違和感のない雰囲気で「ああ、これなら行けるかも。」と直感で思った。

出発早々、「〇〇さんは絶対全身真っ黒で来ると思ってました」と入社2年目の若人に得意げに言われた。その通り、自分は靴の先から被っていたキャップに至るまで、全身黒ずくめだった。一方その後輩はカラフルなペイントが特徴的なスウェットに、茶色のカーディガン、ライトブルーのジーンズに、真っ赤なエナメルのローファーを履いていた。朝適当に選んできました、と言いたげなその服装は、いたるところに自分が持ち得ない感性が煌めき、それでもどこか統一された「色」が見えた気がした。

たちまち自分のすべてを見透かされた気になり、「黒の服しか持っていないのだからしょうがないじゃないか」とくだらない、言い訳にすらなっていない返答をする。交わることのない世界線。だけれどもその気になれば相手が自分の世界を侵食し、内包できることを悟る瞬間。

こういう体験は人生で何度か出会したことがある。それは高校、大学の友人、小さい頃に通っていた習い事の先生、恋人、親、曽祖父、雑誌で見つけた写真家など、これまで幾度となく感じてきた奇妙な感覚だ。自分にはない価値観、感性、センス、審美眼。劣等感と言ってしまえばそれまでだ。ただ、自分は自分にないものを持っている人間が好きだ。自分の近くに、半径10メートル以内にいて欲しいと願いたくなる。写真も同じだ。自分にはどんなに想像を巡らせても撮れるイメージが湧きそうで湧かない写真。ギリギリ届きそうで、届かない写真。それは撮影技術で埋まるわけのない、圧倒的な差なのだ。そんな写真を、そしてそんな写真を撮る人が好きだ。

真似事が好きな自分にとって、どんなことでも自分のなかで「真似できた」と納得した瞬間、次の真似できないことを真似したくなる性なのだ。自分には真似をすることしか与えられなかったから、こう生きていくことしかできなかった。そんな思考が、すでに成長しきった前頭前野をかすめながら、足は新幹線の乗車口の方へと向かっていく――





上越新幹線で東京駅を後にした自分たちは旅情を感じるべく、席をボックスシートに並べ替えた。普段は机の上で顔を突き合わせる4人。今は服装も違えば、自分たちを遮るPCも机もない。新鮮な気持ちだった。どんな会話をしたかはあまり覚えていないが、越後湯沢駅に着くまでの70分強、ふと生まれる沈黙に気まずさを感じる瞬間が少しもなかったことは覚えている。この時から自分は「ああ、この人たちに助けられているのだな」と無意識ながらに感じていたのかもしれない。

越後湯沢に到着してから、ホテルにチェックインをするまでの半日の間は、何もスケジュールを決めていなかった。一行はとりあえずレンタカーを借り、腹ごしらえをするべく、魚沼発祥と言われるへぎそばを食べに行くことにした。


道中、パッと視界の開けた景色に、ひと月前に行った北海道の景色を思い出した。


つづく




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