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24年4月1日 前の自分と今の自分のずれに気づいた話

4/1 月曜日

とりとめもなく考えごとをしていてふと本音らしきものに気がついた。

「ああ、自分、ずっと『支援者側』だったから『利用者側』になったことがショックだったんだな」 

どうもこれが底にあったっぽい。

前職が障害者福祉も含む支援者系の仕事だったので、病気をして自分がそれを受ける側になって「え?」「あれ?」となっているのだと思う。  

そのことに気づいたとき、この表現を使うのが適切かわからないけれど、頭の中に浮かんできたのは「落下」という言葉だった。

薬も飲まず通院もなく支援系の職について普通に働いていた自分と
おわりのない服薬通院をしながら被支援先を探す自分。 

診断のない自分と診断のある自分。
障害のない自分と障害のある自分。
支援を与える自分と与えられる自分。

このギャップが大きすぎる。

ちなみに自分の持病は完治はしないらしい。
だから変化は不可逆だろう。

この「不可逆な変化」と落下感、「自分はもう支援を受ける側の人間だ」という人生のシナリオチェンジについていけていないように思う。

そりゃそうだよな。

文学紹介者の頭木弘樹さんの『絶望名言』という本に人生をレール上を走る列車に例えた話があって、病気などで進路がずれてもしばらくは前のレールの上を走っている気分がつづく 

ということが書いてあった記憶がある。(『食べることと出すこと』という本にもそういう記述があったかも)

今の自分はまさにそれだ。

もう前の自分ではないのに前の自分のイメージのまま前の自分が歩む道を無意識に探してしまっている。  

でも新しい自分と新しい自分のための道を探して生きていかなくちゃいけないんだよな。

じゃあ、どうする?

人生を物語に例えるならシーズン1がおわったんだ。2で生きていく気持ちを持つのが穏当だ。

それが難しいのだけれど。

でも前の自分への執着は自覚したから時間はかかっても手放せると思う。 

そしてシーズン2の自分も自分だから、ゆっくり慣れていこう。

なんか熱めのお湯に足先をちょっとずつつけていくような痛みのある作業だなと思う。全身浸かる頃には気持ちいいと思えればいいのだけれど。

シーズン2はまだ始まったばかりだ。
打ち切りにせんといてや自分、と私にしか見えない関西人も応援してくれている。

おわり















熱めのお湯って書いたけど本当は熱湯と書きたい気分もあった。でもあえてやめたんだと言うことも書いておきたかったからこっそりとここに。

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