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【映画レビュー】あなたと私のラブレター【Love Letter】



昨夜、だいすきな友人とアマプラの共有視聴(ウォッチパーティーというらしい)でパーリーをして、その際に彼女と観た映画がとてもとても素敵だったのでnoteに残しておきます。


「Love Letter」、以前彼女達と耳をすませばを観たときに「図書カードのシーンにときめくのならば、」とおすすめしてもらった映画。
なんの事前知識もないまま観たこちら、色んな想いのラブレターが交錯する、切なくも前向きで愛おしいストーリーでした。



以下ネタバレ含みます、視聴予定の方はご注意くださいませ🤲





「Love Letter」(1995年)



ラブレター


まずこの映画を通して感じたのが、「愛」というものが如何に形がなく、変動的で、定義付けのむつかしい、それでいて確固たるものであるかということです。


博子(中山美穂)から亡き恋人の(山で遭難しているので「何処へいったか分からなくなった人」なのだけど)藤井樹への愛、
恋人を忘れられない博子を隣でずっと想う秋葉さん(豊川悦司)からの愛、
それから過去の藤井樹から、かつて中学の同級生で同姓同名だった女の子の「藤井樹」(一人二役で中山美穂)への愛、
そして博子から「藤井樹」、「藤井樹」から博子への愛。

強いて言えば、亡くなったとされる藤井樹へ向けられる遺された者からの愛、それから今を生きる者へ向けられる愛も。


それぞれ全く非なるもので、形も違えば大きさも濃さも深さも違うもの。でも、それを言葉にしようとすると、「愛」というものに落ち着いてしまう。


タイトルが「Love Letter」であることからもですが、この映画の隅から隅まで、ずっと色んな方向へラブレターが交わされていたように思います。


博子から亡き恋人の藤井樹へ向けられた手紙も、それが同姓同名の藤井樹に届いた後に交わされていた手紙も、彼を偲びながら交わされた手紙も、そして中学時代の彼が書き残した図書カードも。


時代を越えて、間柄を越えて、沢山のラブレターが交錯する物語だったなぁというのが大きな感想です。




変化する「記憶」の所感


それから、忌まわしい過去が忌まわしい過去でなくなったということも、この物語の大きな筋ではないかと思っていました。


これは私個人の日頃の考えですが、人が持つ忌まわしい過去、もう封印したはずの過去、起きた事実は変えられなくても、それを「どんな風に閉まっておくか」は後からでも変えられるのではないか、とたまに思います。


そしてこの映画を観た時、藤井樹ちゃんにとって忌まわしい思い出だった同姓同名の彼との出来事が、思い出す度に、手紙に起こす度に、そして最後に過去の彼の心と通じ合った時、それは最初に抱いていた思い出とは全く異なるものになってたんじゃないかなと思います。


博子からすれば亡き彼の思い出を少しでも分けて欲しい、少しでも彼を感じさせて、想わせて欲しい、そんな気持ちだったのかもしれないですが、博子の手紙が樹の過去を掬い取ったのかなとも。


そう思うからこそ、私は二人の間で交わされていた手紙も「ラブレター」だったと思うのです。
博子から藤井樹へ、そして同姓同名の彼女へも、敬意や愛がないと成り立たない物語でしたし、それは逆も然り。
ラブレター、「ラブ」って恋愛だけじゃないですからね。


人から人へ想いが伝わるとき、それは図らずしも「ラブレター」なのだなと、この映画を観て感じました。



「秋葉さん」という「愛の人」


博子をずっと想いつつ、亡くなった藤井樹の友人だった「秋葉さん(豊川悦司)」というガラス職人の男性。
この人物が映画にどれだけの色をつけたかは計り知れません。


最初は、彼を忘れられない博子に強引に言い寄っているんじゃないかとか、自分のために彼を忘れさせようとしてるんじゃないかとか、なんかそういう印象でした。
でも、ストーリーが進むたびに、彼が藤井樹を大切におもっていたこと、そしてどれだけ博子を愛しているかということを感じました。


大きく印象が動いたシーン、ひとつめは届くはずのない「藤井樹」へ宛てた手紙の返事が奇しくも返ってきてしまったとき、それが同姓同名の全く別の人物だということを暴いたシーンです。
彼を忘れられない博子に嫌味のような言葉をじとじとと重ねる姿、「嫌味っぽいやつだな」ではなくて、「あぁ本当はこんな言葉言いたく無いだろうにな」が大きな印象でした。

役者さんの演技力もあったと思いますが、博子をずっとずっと本気で想っているからこそ、亡き恋人にいつまでも縛られる様を目の前で目の当たりにし続けるのが耐えられなかったのだろうな、と。
そして日頃から感じていたちくちくじとじととした彼の部分が、博子へ出てしまったんだろうな、と。


印象が動いたシーン、ふたつめは彼が遭難し行方不明になった山へ出向くシーン。
山小屋で思い出話に花を咲かせる場面では一切顔を曇らせることなく博子と樹の惚気話に興じ、亡き彼を想う表情が見られました。
また、もう一度山に登ることを「こわい」とだけ口にした台詞も印象的で、博子にとって藤井樹の死が大きかったのは勿論、この秋葉という人物にとってもそれは多大なる影だったのだろうとこのシーンで改めて思わされるのです。


秋葉さんは、彼の死を忘れた訳ではなく、また目を背けている訳でもない。軽んじている訳でもない。向き合っているからこそ、博子とは対照的に前へ前へと自分の足を動かしているのだと感じました。


それから、山小屋で迎えた早朝、その山へ向けて何か想いを吐露するよう博子へ促す彼の姿も印象的でした。

胸に刺さった棘を抜く時、抜く側の勇気って必要だと思います。抜かれる側も苦しいと思います。秋葉さんはその「棘を抜く側」を、多少強引にでも粘り強く買って出た人物でした。
泣き崩れながら山へ想いを叫ぶ博子の背中を見る眼差しが、とてもとても力強くて。


日陰に座り込む人を日向へ連れ出すことは、とてもとても難しく、根気がいることです。多少の自己犠牲だって必要かもしれません。
でも、それを物語を通してずっと背負ったこの秋葉という人物を、私は愛せざるを得ません。



「お元気ですか。私は元気です。」


1番初めに亡き藤井樹へ宛てた手紙の内容は、そっくりそのまま、やはり博子が藤井樹の眠る山へ叫んだものでした。
それ以上でもそれ以外でもなく、博子は藤井樹へそう繰り返すのです。


「お元気ですか。私は元気です。」
この二文が、これ程までに愛情深く感じられる映画は恐らくこの映画だけだと思いますし、この映画に出会ったからこそ、私はこれからそういう風に感じることができるんだと思います。


愛する人が元気ならば、それでいいし、私だって元気だよと伝えることが愛情表現になることだってあるんだな、と。
確かに、大切な人から「お元気ですか、私は元気です」と手紙を貰うと、安心するし嬉しいかもしれません。

「愛しています」を伝える言葉なんてこの世には山ほどありますが、この「お元気ですか、私は元気です。」もきっとその中の1つなんでしょうね。
そしてその言葉は、彼という人物を知る博子からしか湧いてこない言葉だったんだろうなと。


ちなみに、知らない人から突然手紙をもらった同姓同名の藤井樹がそれに返した言葉は「私はちょっと風邪気味です」でしたが、寒い雪山へ眠る藤井樹と重なる部分があるなぁと思いました。




愛ってほんとに抽象的で、言葉にできなくて、肩書きがあるものもあればないものもあるし、相手に届かないもの、届いても気づいて貰えないもの、なくなってから気づくもの、様々です。
その「様々」を、2時間の間ずっとずっと見させてもらったなぁ、という、そんな映画でした。


大切な人と観たい映画かもしれません。
もしこれを読んだあなたが、もう一度映画を観たいなぁなんて思ったり、はたまた観てみようかなぁと思ったりしてくれたならば、このnoteもあなたと私のラブレターです。



それでは💐





追伸
この映画をすすめてくれて、そして一緒に観てくれた貴女へ
お元気ですか。私は元気です。

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