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ヘルプマークと私と、



先日、思い立ってヘルプマークを貰いに行ってきました。
ずっと悩んでいたことで、社会人になるこの春を前にヘルプマークを持つことを決めました。


ヘルプマークとは、と検索をかけると、以下のような文章が出てきます。

「義足や人工関節を使用している患者、内部障害や難病の患者、または妊娠初期の女性など、援助や配慮を必要としていることが外見では分からない人々が、周りに配慮を必要なことを知らせることで援助を得やすくなるよう作成された。」
Wikipedia

車内の優先座席の案内板を見ると、マタニティマークと並んで、赤いカードのような形のマークがあって、それがヘルプマークのデザインです。


これ↓



私のもつ障害がヘルプマークを貰うほど切羽詰まった障害では無いと思う方も居るでしょうし、私も、私なんかがヘルプマークを貰うことに抵抗がありました。


障害を持っていることに抵抗があるのではなくて、まだ自分自身が、不安障害というものの支障を過小評価しているんだと思います。

自分のつらさを認めていながら、そのつらさを過小評価してしまって無理を重ねることのしんどさ、私が何よりも理解したいと思うことのひとつです。

これから書くnoteは、そんな私とヘルプマークのこれまでとこれからのnote。

ヘルプマークを持ったことを友人へ話してはいないし(先日初めてひとり話せた)、ヘルプマーク持ったんだ!!!!!って言いたい訳じゃなくて、ただこのnoteを読んだあなたが、自分のつらさやしんどさを、少しでも認めてあげられたらなと思うし、すこやかに過ごせるようになるための手助けになれば幸いです。


それから、ヘルプマークの認知度のことも。1人でも多くの人がヘルプマークを知ってくれたらなと思います。


ヘルプマークを持つに至った経緯

ヘルプマークを貰おうと思ったきっかけはいくつかあって、

◎上記理由で予め優先座席に座らせていただく機会が多い
→見ただけでは障害のない私が優先座席に居ることで周りの方々へ不快感を与えてしまったらどうしようという不安がありました。

◎社会人になって毎日通勤する日々を思うと、分かりやすい何かがあった方が周りへの迷惑も少なくなるかと思った

◎もし動けなくなった時に自分を助けられるマークになればいいなと思った

◎そういう何か困難のある人なんだな、というワンクッションがあるだけで違うのではと思った


とこんな感じ。


ヘルプマークは案外すごく簡単にもらえてしまうもので、区役所等へ行って担当課に「ヘルプマークをください」と伝えると受け取れます。


診断書も何も求められないことはヘルプマークの良い所でもあり(診断の有無はそれ即ち日常生活の困難の有無ではない、と思っています)、一方で本当に支援を必要としていなくても受け取れてしまうもので、世間の目で懸念される所でもあるなぁと思いながら受け取りました。



貰った夜に死ぬほど泣いた話

ヘルプマークって付属にシールがあって、そのシールに自身のことや万一の際の対応、連絡先などが記載できるようになってるんですね。
それをヘルプマークの裏側に貼って使っています。
ヘルプマークをまじまじと見ることがなかったので(なんだかはばかられて)私も初知りでした。


そしてヘルプマークを貰った日の夜、シールに自分のことやして欲しいことを書きながら、ほんとにめちゃくちゃ、いっぱいいっぱい泣きました。


例えば私がヘルプマークをつけて電車に乗ったら、「ヘルプマークをつけた人間が乗ってきた、席を譲らねばならない」と嫌がられてしまうんではないかとか。
結局は配慮をさせてしまうマークで、やっぱり周りの人を不快な気持ちにさせてしまうのではないか。


Twitterでヘルプマークと検索すると、「若い人がマークを付けていても障害があるのか疑う」という意見をはじめ、ヘルプマークについてのマイナスイメージがあることが散見されました。


それは本当にきっと一部で、多くの人がそう思う訳では無いと分かっていながら、その夜の私にはそのひとつの意見が世間の総意のように映ってしまって、どう足掻いても何かしらの迷惑をかけてしまう存在であるという事実と恐怖に泣きました。


迷惑かけずに生きてられる人間なんてそもそも居ないんですよ!まじ大前提。
加えて電車の中で出会う人なんてきっとその場限りだし。私のことなんて覚えるはずもないし。
私が悪い方へ気にしすぎていることも頭では分かってるんですが、でもやっぱり、「〜たらどうしよう」が尽きることはありません。



ヘルプマークと私、そしてそれを見る周りの人、そういう関係性を未だ上手く受け止められずにいます。


ヘルプマークをつけて生活してみた話


私の恐怖症性不安障害で避けられないのは「電車」がいちばんデカいかなぁと思っていて、電車移動をする時だけ付けるようになりました。


実際、日々の生活の中で電車移動をする時、ヘルプマークをつけていれば席に座っている罪悪感は薄れましたし、座れずに発作が出る機会も少なくなったように思います。


つけ始めてから2ヶ月くらいになりますが、1度車内に居合わせた方に譲って頂けたこともあって、その時はその方の優しさに触れられたことがありがたくてやっぱり泣きそうになりました。笑


その方は降りる時に「お嬢ちゃん、体お大事にね、」とあたたかく言ってくださって。

私にどんな障害があるかは見ただけで分からなくても、私がすこやかに過ごせるようにご配慮くださったことが何よりも嬉しく、ありがたく、あたたかかったです。




一方、ヘルプマークを付ける上で、気にしなければならないことも増えたように感じているのが実際のところ。

さっきもちらっと書いたように、ヘルプマークに対してマイナスイメージを持つ方もゼロではないので、例えば乗った電車が満員電車だったりすると「私のマークを見れば席を譲らなければと思わせてしまう」と怖くなってマークを隠してしまったりします。



ほんと本末転倒なんです、私がよく分かっています。笑
そもそも周囲の人へ知らせるためのヘルプマークで、譲りたくないと思う方は気付かないふりをするだろうし、譲っても良いと思う方は譲ってくださるかもしれないし。


どうしてこんなに周りの目を気にしてしまうんだろう、めんどくせぇ人間だな〜〜〜と自分でも毎日情けなく思います。
数年服薬を続けていますが、症状を抑えるだけであって考え方の根本は簡単に変わらないので、なかなか難しいです。



ヘルプマークと私と



私のお守りでもある一方で、まだうまく距離感の掴めないヘルプマーク。
ヘルプマークは助けの必要とする人がつけるもので、甘えとか免罪符とか全くそういうものではありません。

ヘルプマークをつけた人に席を譲ったら怒鳴られた、みたいな話も聞いたことがあって、物事ってどうしても悪い話が印象的になるイメージもあるけれど、どうかそんなマークではないこと、色んな葛藤があって悩みがあって困難があって、すこやかに生活をするために必要なマークであること、今1度お伝えできたらなと思います。


それと、「私はこうである」というnoteであって、ヘルプマークは各々の事情の元に所持されるものなので、一概にみんながみんな私のように考えたり捉えていたりする訳でもないです。
ヘルプマークの1所持者としてのnoteでした。


もう少し時間が経てば、ヘルプマークとうまく向き合えるようになるかしら。
なれるとよいな、強くなれたら、と思いながら、この世界のどこかにいる、生活の困難を抱えた方が少しでも生きやすくなれることを想いながら終わります。



では·͜·


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