それでも言葉を愛したい話
夜に書く文章って、次の朝見るとなんか照れくさくなって恥ずかしくなって結局消しちゃう、みたいな方多いと思うんですが、私はむしろ夜に書く文章が好きです。
なんの躊躇いもなく自分のこころの内側を、自分が気に入った言葉達で吐露できるような気がしていて。
そこには偽りも虚栄も何もなくて、ただ私が私をさらけ出せるような、夜に書く文章ってそういうものだと思います。
こころの内側がありのまま過ぎて、朝になるときっと恥ずかしくなっちゃうんですよね、きっと!
でも私はそんな文章が好き。
という訳で、私はいつも夜にnoteを書くんですけども、今日も今日とて、そんな感じ。
『言葉なんてものは落としたキャンディーさ』
おいしくるメロンパン「斜陽」の歌詞の引用ですが、私はこのフレーズ、心から共感します。
言葉なんてものは、床に落としてしまったむき身のキャンディーのように、もう二度と口に戻ることはないもの。
1度口に出してしまえば、もう二度と無かったことにはできないもの。
「言葉」には、愛も、恋も、憧れも、切なさも、何もかもを載せることができます。
でも同時に、鋭く、重く、刺々しく、悲しくなるくらいに悪意を載せることもできるんですね。
私はまだまだ人間として未熟で、言葉を愛していきたい大切にしていきたいと願う反面、時折その言葉の重さをうまく扱えない時があります。
相手が傷つくだろうな、不快になるんだろうな、と少し考えれば分かるはずなのに、自分の感情に任せて言葉を使ってしまうことがある。
言葉の重み、鋭さ、誰しもが知っているはずなのに、どうしてこんなに上手く扱えないんだろう、どうして凶器にしてしまったんだろう、と反省をする日があります。
そう、「言葉なんてものは落としたキャンディー」なんですよね、本当に。
でもだからこそ、「落とした」という事実が変わらないなら、「キャンディーを落とした」ことを認めるということがまず相手や言葉への最初の誠意なんだろうな、と思うのです。
「キャンディーを落とした」を認めること
どれだけ言い訳をしようと、どれだけ理由を正当化しようと、「キャンディーを落とした」という事実は目の前にある訳です。
これは言葉も同じで、どれだけ後から言い訳を並べても、正当化をしても、「悲しい言葉使いをしてしまった」という事実は変わらないです。
でも、その後に「私、キャンディー落としちゃった。ごめんね。」と言えたなら。
私、キャンディー落としちゃったな、と事実を事実として受け入れることができたなら。
私はそれが、やはり「言葉」というものが含む「誠意」であり、言葉が大切にされるべき所以だと思います。
キャンディーを落としたことは変えられなくても、落としたことを認め、相手に誠意を見せることが出来る。
悲しい言葉使いをしてしまった日は、例え自分が悪くなかったんだとしても、「悲しい言葉使いをしてしまった」ということを認めて「ごめんね、」をすることで、私はきっと「大丈夫」になれると信じたい。
ただ「ごめんね」ではなく、誠心誠意をもって相手と向き合い、心の内を伝え直すこと。
キャンディーを落とした事実を認めること。
それが、私達「言葉をつかう者」が出来る、最初の誠意だと思っています。
言葉「遣い」の話
私は言葉は「使う」ものではなく「遣う」ものだと思っています。
「遣」っていう漢字、「遣唐使」とかで使うみたいに、「行かせる/使いとしてやる」みたいな意味があるじゃないですか?
私にとって言葉は、相手へ私からの愛情を、想いを、心の内を、伝書鳩を飛ばすように「届ける手段」。
大切な貴方へ、私の気持ちを届ける使いとして。
それと、「気を遣る」みたいな意味を持つように、やはり言葉を届ける相手を慮るものでありたい。
「伝える」を諦めない
私は、自分の気持ちや愛を正確に伝えることの出来る唯一の手段が「言葉」なら、そして自分がそれを遣うことができるなら、「伝える」ことを諦めたくはありません。
話が通じない人もいるかもしれない、何も届かないかもしれない、取り合ってくれないかもしれない、
それでも届ける手段があるならば、私は伝えることを、言葉を諦めないし、届けることを放棄したくはない。
だから私は、言葉を愛したいです。
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