『同人誌を出す』という才能

八年と十ヶ月ぐらいツイッターをやってきて、お前達が個人の発信する文字、イラスト媒体に求める意図というか、何に飛びつくか?という習性のようなものはだいぶ把握できるようになったので、こんなタイトルを見たら

「ウン万文字書くだけでも普通の人には到底出来ない何百人に一人の才能!」
「ましてやそれを印刷所に頼んで本にしてもらうとかマジで偉業なので胸を張ってほしい!」

とかいう褒めちぎり文を期待するであろうことは起稿のためにnoteのアプリを開いた時点でおおよそ予測できたことではあるが、別にお前達同人出版経験者もアマチュア大長編の脱稿を経験した者も褒めるつもりはないのでそういう期待は捨ててほしい。結果的に褒める内容になるかもしれないが、少なくとも今褒めるつもりはない。ここは地獄の門ではないが俺の記事の門なので、お前らがどう感じようと俺が編集しない限り文章が書き変わることはない。一切の要望を捨てよ。希望はそこらへんで遊ばせておけ。

要するに俺が同人誌と 、同人誌を書く人について思うことを延べていく。別に発表する意図も書く上でのコンセプトもないのだが、思ったので書いてみただけだ。
ここからの文章で褒めるつもりは無いがお前は褒められてるように感じるかもしれない。そしてけなすつもりも無いがお前はけなされているように感じるかもしれない。その辺踏まえた上で読んでくれ。
こう書いとけば多少けなしてもいいように解釈してくれるだろう……





【まず、同人誌を出すすべての人に思うこと】

「ようやるわ…」と思う。

早速あしざまに捉えられかねないが、本当にそう思うのだから仕方ない。同人誌を出す予定も展望もないので適当にチャートを想像してみるが、


『ネタ出し→執筆→参加申し込み→印刷所への依頼→宿の予約→小銭の用意→現地に向かう→早起きして会場入り→現地に届く自分の本の陳列→適当にらっしゃいらっしゃい言いながらオタク・ラウンダバウトを眺める』

というのが即売会の参加チャートだと思う。たまに『ネタ出し→執筆』を『印刷所への依頼』の後にネジ込んでヒイヒイ言ってるやつを見かけるが、それこそ「ようやるわ…」と思う。すごいなお前。悪いほうに。

俺がこのチャートを踏襲することをシミュレートした場合、もっとも大きなハードルとして『現地に向かう』が立ちはだかる。
別に俺がお外コワイコワイとビビっているわけではなく、同人イベントのために地方から東京くんだりまで行くというのが純粋にめんどくさい。あまつさえ所狭しと異常者がスペースを設営し隙間なく異常者が交錯する空間で、売れるかどうかもわからない本を自費で出すなど正気の沙汰には思えない。俺ならディズニーランド行くか蒙古タンメンを食う。ディズニーが混んでいれば歌舞伎町で麻雀でも打つ。

……どうもお前たちはカジュアルな文脈で「異常」だの「頭おかしい」だの「ヤバい奴」だの言われるとニヤニヤしながら"いやー普通だけど"などとやんわり否定をする傾向にあるようなので、誤解のないように断っておくと、この文中で用いる場合は普通に悪口だ。アイデンティティが希薄なやつはそういう評価を喜んでしまうのだ。俺にも覚えがある……
話を戻すと、どんな異常者と出くわすかわからないのは別に即売会に限ったことではないのだが同人誌即売会に来るのは基本的にオタクがほとんどだ。行ったことないから知らんけど。
まずこいつらは「始発に間に合う時間に早起きして人で混み混みの同人誌即売会に進んで参加する」というアクティブな実績をもれなく解除しているので、恐らくその異常性をアクティブついでに対面で発露してくる可能性が高い。特にネットで知った作家などの本を目当てに来ていた場合、ネットと現実の境目があいまいな状態で参加しているのでネットのノリを持ち込んでくる恐れがある。あまつさえ初対面の人間にも。
……繰り返すが俺は即売会に参加したことが一切ないので全部偏見だ。そこんとこ踏まえた上で怒るように。怒るのはお前らの勝手だ。


要するに変な人たちが変なノリではしゃいでいる空間にわざわざ前日入りして宿とって早起きしてまで乗り込んで本を売るという楽しみが、俺には楽しそうとも思えないし理解できないのだ。っていうかもうpixivにあげてりゃよくね?




【作品を売る。ということについて】

ツイッターやってるオタクは本当にアホなので、pixivにあげてりゃよくね?とか言うと俺が「金をとるな!タダで見せろ!」と主張しているように解釈しかねないので先にことわっておく。これがユニバーサルデザインだ。俺は気づかいが出来る。。。。

pixivうんぬんについてだが、実際承認が得たいならそれでいいはずだ。金が欲しいならファンボックスだかファンティアだかで発表してもいい。在庫抱えて爆死するぐらいならそっちのほうが精神衛生上宜しいと思う。
……というか刷りすぎて在庫死する即売会レポ漫画とか10年以上前からあるのになんで未だに無謀な価格設定と在庫を用意するんだ?

俺が「そんぐれえちょっと考えたらわかんだろ……」的な、上から目線で語っているのは、何も俯瞰アピールがしたいわけではない。単純に自信がないので、値段を設定するのが怖いだけだ。
正直、俺は自分の文章で金がとれるとか思っていない。例えばこのnoteというサイトは読むのに課金を要する有料記事を設定することもできる。が、俺はそんなことをしない。出来ない。「続きが気になる」という期待を込めた意志で課金をした人に報いるほど、そしてその確信を自分で持てるだけの達者なもんが作れないからだ。
そりゃあ、まあ、大手出版社の編集者が見初めてくれたりしたら多少は自信もついて"ヨシ、商業いきましょう!"と、自分の著作物で金を取る覚悟と自信が芽生えるかもしれないが……

noteでは、下限は百円。上限は一万円まで設定できるようだ。つまり俺の心情的に、『安く見積もっても百円を取れる質と量の文章』というテキストをしたためた。という自信がなければ金は取れないのだ。無理くせぇ~

これは印刷所への連絡やら会場への現地入りだのなんだのを丸ごと取っ払った、年がら年中即売会やってるに等しいインターネットの創作物発表プラットフォームにおける俺の価値基準であり、これが現実世界で物理的な空間の占有を伴う、厚薄を問わずなんらかの書籍の形態の話であれば俺のウンザリ度数は天井知らずに反り返っていく。
そんなめんどくさい上に金もかかることを平然とやってのけるやつは、きっと相当な自信か、その根拠になる実績があるに違いない。それが『同人誌を出す』という才能なのだろう。
だが、実績が無いのに自信のあるやつや、自信も実績も無いのに同人誌を出す側に回ろうとするやつも散見される。それも『同人誌を出す』という才能の持ち主なのだろう。

考えてもわからん。なんだ?『同人誌を買う』ならわかる。欲しいものを手に入れるのだ。楽しいに決まっている。魅力的に決まっている。それが書店委託や電子販売の予定が無い、コアでニッチな分野を突っついた解説本などであれば「おおっ」となって買ってしまうかもしれない。

だが、『同人誌を出す』ことにどんな魔力がある?もし、俺が会場までの交通費がほとんどかからない東京住まいであれば認識が違ったのか?

あるいは、『絵』であれば違うのか?



【『絵』の力】

そう。『絵』。同人漫画の違法アップロードに関する闘争はよく見かけるが、同人小説の違法アップロードはとんと話を聞かない。あるのかもしれないが、大きなニュースになったのは見たことがない。もしかすると、この二つのジャンルが立っているステージは全く違うのか?


もしそうなら考察のしようがない。お手上げだ。俺はまったく絵が描けない。なんならペン字もだいぶ苦手だ。
真横に引いた直線はなぜか太さが不均一になり、円を描けば変に縦長になる。字は罫線やマス目を必ずと言っていいほどハミ出す。""の字とか絶対無理だ。
そんな俺にとってデジタルテキストは大いに救いであり、ルネサンスだった。小学生の時分、作文は名前を書いただけでも「ようやった!」と褒められるほどのアカンタレであった俺が(作文用紙に名前すら書くのが嫌だった)題材とそれに対する見解を用意すれば一万文字ぐらいは……やっぱ八千文字ぐらいは、頑張れば書けるようになったのだ。

で、『絵』だけは本当に無理だった。
同じく小学生の頃、6年間で図画工作の先生が2回変わって3人の先生に教わったのだが、そいつらがまあ揃いも揃ってアレだったのでただでさえ出来ない子の俺にとっては"不得意で、しかも先生がアレ"という、好きになれる要素が一切無い分野だった。芸術畑の人間を教育の現場に解き放つんじゃないよ。(音楽の先生はリコーダーのタンギングさえしてやれば勝手に満足してくれたのでチョロかった。)

俺は絵が壊滅+絶望的に描けないので、絵が描ける人間をガチですごいと思う。(絵柄によるが…)
実際、俺は小説より漫画やアニメのほうが好きだ。描けたらなあ。作れたらなあ。といつも思う。多分、そういうヤツは多い。
去年か一昨年か、あるいは今年か(今が12月12日なので"今年"の範囲が結構広いことに留意されたし)に、「即売会で、同人誌の表紙を見て試し読みをした人が"なんだ小説か"みたいなことを言って傷ついた」みたいなツイートを見た記憶がある。世界で上位に食い込む圧倒的識字率を有する教育大国ニッポンにおいても、字や文より絵のほうが好まれるということだ。これは大いに興味深く、共感できる。

なぜか?とかは省く。俺自身感覚として理解できるので、サクッとぶちまけるが、文章は読むのがダルい。
実際、大型書店に行けば漫画は丁寧にビニールで包装されているにも関わらず文庫本などの小説はどうぞお読みくださいと言わんばかりにカバー一枚を羽織っただけの真っ裸同然で陳列されている様子を見ることが出来るはずだ。なぜか?簡単だ。文章は読むのがダルく、しかも立ちながら読むのはもっとダルいからだ。

ここまで読んでいるお前も、まさか立ってはいまい。座るか、寝そべるかして読んでいるはずだ。いっぽうで漫画は容易く立ち読みが叶う。
まあこれの理由付けは簡単で、単純に労力の違いだ。漫画は文字が擬音とセリフだけで、視線移動が大雑把で済む。
対して小説は字量が多い多い。背景を、動きを、表情をそれぞれ1~2行使って説明しながら、セリフやモノローグまで書く。何より、極めて単純かつ細やかな視線移動を要求されるのだ。

段落のてっぺんから、一文字一文字読み解いて文章を認識し、文末にたどり着いたら数ミリ隣にある文の頭まで視線を動かし、また文末まで……と繰り返しているうちに、同じ行を2回連続で読んでいたり一つ飛ばして読んでいたりした経験はないだろうか。俺はある。無い奴はうそをついているか、人の気持ちがわからないやつに違いない。

こんな面倒な作業、立ってやるなど論外だ。電車の中で吊り革握りながら片手で文庫本読んでる描写をたまに見かけるが、あんなもん超人の御業だ。だいたいめくるときどうするんだ……ずっと同じページだけ読み続ける意思がないとあんな読み方は出来ないはずだ。

で、俺はここにきて一つの仮説に思い至った。

書き手の負担と読み手の負担は、反比例しているのでは?






【閑話】


――――――――――
かんわ
【閑話】
1.
《名》むだばなし。
2.
《名・ス他》静かに談話すること。
Oxford Languagesの定義
――――――――――――

うーん。本節はまぎれもなく1だろう。同人誌への所見の話から自分の作品で金を取るうんぬんについて語っていたらどうして小説と漫画の違いになるんだろう。レポートも論文もなんでも、明確なテーマ決めを怠るとこうなる。俺はちゃんと自分の疑問に折り合いをつけて本筋に戻れるのだろうか。まあ金取ってないしいいだろ…お前らも金払わずに読むんだから好きにしろ。

俺の"書き手と読み手の負担反比例説"だが、なかなかどうして的を射ていると思う。なかなか射れるもんじゃないと思うよ。そういう的は……
比較というものは、往々にして対極の図で表すとわかりやすくなる。そういう意味では文と絵の違いをこうした格好で比較に持ち込めたことは我ながらいい考察が出来たと思う。俺は思うんだってば。


まず、漫画。絵だ。多分描くのはメチャクチャしんどいしめんどくさいと思う。
あれだけサッと読める連続性を伴う絵を描くのは、まさに筆舌に尽くしがたい労力を要するに違いない。俺には無理。拷問。というか漫画に限らず、絵は何か月もかけて描いたところで鑑賞は一瞬で終わりがちだ。

ふと文化的資本を充実させようと気まぐれを起こして美術館とか行っても、絵画はほぼザラっと見て終わりだったりしないだろうか。俺はそうだ。俺の乏しい感性ではそうやって鑑賞する。なんやかんやでめっちゃ写実的か、立体的な現代アートや彫刻ばかり見てフンフン頷く底の浅い芸術鑑賞ばかりやってしまいがちだ。なんならそっちにもあまり時間をかけない。休憩エリアに据わって備え付けの目録なんか読んでると「もうこれ読んでりゃ良くね?」などと思ってしまうのは、俺だけの美術館あるあるではないはずだ。

なお、現役で芸術界の第一線で筆を振るう方々、あるいは第一線を目指して粉骨砕身する美術の徒はもしこのテキストに目を通していたとしても、俺のような底の浅い感性を持つ人間のことは意にも介さないでほしい。俺は全人類が思い思いの美術とか学問に打ち込むだけで飯が食える世界を理想としている……あと海外のモンスターエナジーをたくさん飲んでみたい。

一方で文章だ。俺がパソコンで文章書くのを苦にしていないだけかも知らんが、アウトプットは時間さえありゃどうってことない。
物語にせよ所見にせよ、どっちみち思っていることの記述に過ぎないのだ。意図する内容を脳内で解説し、それを小奇麗な言葉で飾ったり、面倒な言い回しで誤魔化したり、シンプルの名を借りた適当な物言いであけすけに書いたりするのだ。後は語彙力。語彙力は辞書引くなりググるなりすれば難しくてかっこいい言葉がたくさん出てくるので大した障害ではない。

……対して絵はどうだ。「こんな絵を描きたい」と思い、細部にまで思いを巡らせる。そうして脳内で完成した全体図をいざキャンバスに落とし込むとグニャグニャに波打ってんだかギザギザに弾けてんだかようわからんしくじり方をして非ユークリッド的な天然ゲルニカが出来上がる。こんな理不尽な話はないだろう。
ましてや漫画を、それも週刊で描くとなれば、イメージさえできない。場合によっちゃあ読み飛ばされるし、打ち切りもある。俺の想像力と語彙力では「めっちゃ頑張った」としか言いようのない労力を費やして仕上げた作品が不人気を理由に打ち切られたりしたら、多分俺の場合普通に発狂する。

閑話の閑話になっていた。話を文章のほうに戻す。
そうして長々と時間をかけて書いた文は、さすがに執筆に費やした時間よりは短いだろうが、すぐには読めない。目も疲れるし、どんな文章でも読解の工程は要する。時間も手間もかかる。こうなると先ほども説明したとおり読み手の負担は大きい。
反対に、書き手は書きたいことを書ける手法で書いたに過ぎない。想像した情景を、想像したとおりに説明する。どっかに常に己の限界を超えて執筆するような、万年筆から豪炎をほとばしらせて20×20の原稿用紙に魂を刻み込む熱血文筆家がいるならその熱意を袖にして申し訳ないが、俺は俺以外の人間が文章を書くときの気持ちが想像できないし知らないのでそこらへんは俺の思うところに委ねてほしい。

反対の反対に、なんだったか。対偶とか言うんだったか。忘れたが、前提条件から反対にして例えてみよう。『サッサと、適ッッッッッ当に描いた絵』と、『唸って、唸って、悩みに悩み抜いてうんうん唸りながら書いた文章』で、つまりは書き手の負担を入れ替えた場合、読者の負担も入れ替わるのか?という考察だ。

スラッと読める文章は書き手もスラっと書いていることが多い。少なくとも俺は、さっさと書いた文章は素っ気ない、シレーっとした、意味だけは伝わるような、あっそ。な感じの文章になる。では、書き手が「うぅ~~~~ん」と唸りながらしたためた文章は?

多分読まれない。

負担もクソもない。読まれないのだ。そういう文章はだいたい読んでも疲れないが、意味も分からないという文章になる。ゼロだ。そういう意味では負担にならないとも言える。
いつフォローしたか覚えていないやつのつぶやきを読み流す感覚に似ている。あの要領で読むことを放棄される。「ダメだ、わかんねえ……」的な放棄ではなく「なんじゃこら」的な放棄である。何度も言うが、俺の場合は、自分で悩みながら書いた文章を読むとそうなる。だって他のやつが文章書いてるとき悩んでるかどうか知らねえもん……

………書きながら気付いたが、この考察は『俺が悩みながら書いた文章を』『自分で読んだとき、疲れないけど意味不明な文章になる』という体験に基づいているので、『書き手に負担が少ないように描いた絵』に受け取り手がどう反応するかが、俺にはまったくわからない。
だって、負担がどうこう以前に描けねえんだもん。

どうにか考えるのであれば……『美麗な絵柄のイラストレーターが白ハゲや棒人間を描いたのを見たときどう思うか?』で考察してみればわかるかもしれない。その場合でもやっぱり受け取り手の負担はほぼないが、観る意味が特にない絵に……なると思うんだが、棒人間のたとえはどうなんだ?微妙な気がする。少なくともこの考察部分を有料記事にしたらガチで叩かれるのは間違いないとは思うが。


【そろそろ疲れた】

いい加減書くことも無くなってきたので、畳みかけよう。同人誌の話に戻す。

絵と文の比較でわかったことは、受け取り手、および書き手の負担の質。文は受け取り手の負担が大きく、書く側の負担が少ない。絵は受け取り手の負担が軽く、描く側の負担が大きい。
たぶん、平成以降の同人界隈では同人誌=漫画の風潮が強く、我楽多文庫に端を発する、同人誌の原型であるはずの『同人小説』はやや無勢のきらいがある。
畳みかけると述べた手前これ以上節を分けられないので、遠回りながらここで説明してしまうが、おそらくもっとも『承認』を具体化したものが『購入』のプロセスなのだと思う。
ネットにあげれば、閲覧はされてもブックマークや、いいね、リツイートがなければ承認された気がしない。
つまり、創作者は受け手に対して一歩踏み込んだアプローチを求めているのだ。

「見るだけじゃなくていいねやブックマークを……」「サンプルだけじゃなく購入を……」

より見慣れたアプローチの要望として、「同人誌の感想」を求めるツイートを見かけないだろうか?こうして考えてみると、あれは「購入」の一歩先を求めているのだ。

ほとんど定型文めいて
「感想送ったら迷惑かな……とか言ってる人見かけたけど感想もらったら五体投地するぐらい喜びます」
みたいなツイートはよく見かけるが、実際に「感想送ったら迷惑かな……」と言っているアカウントはどういうことか一回も見たことがない。
俺も結構な数のユーザーをフォローしているが、まだまだ見ている世界が狭いようだ。フフフフフ。なあ…?

じゃあなんで承認されたいのか?という話になってくる。承認されたいのは当たり前だろうが!と思うかもしれないが、『当たり前』にも理由はある。ではその理由は?

そりゃあお前……『描く負担』を報われたいからだろうよ………

先も述べた通り、俺の認識においては『描く』ほうが負担は大きい。それに倣うならば、その負担を『購入』というもっとも報われる形で、ちょっと下品に表せば金銭を伴う格好で爽快へと昇華したい。というのが人間のサガなのではなかろうか。

一方で文章書きは、さしたる負担を受けずに作品を書き上げているので「報われたい」という思いが少ないのかもしれない。(何回も言うが、俺の場合は。という話だ)『読む』という受け取り方は負担が大きいので、それで結構ですよ。な具合で帳尻を合わせているのではないか。はぁー。読むなんて大変だったでしょう。ありがとうございました。みたいな。
そう考えると、漫画描きは負担の少ない受け取り手に対して「負担」が欲しいのかもしれない。拡散という負担。ブクマ欄を埋める負担。感想を書く負担……それこそ、金銭を支払う負担。など。

こうした背景が昨今の『同人小説』の母数が少ない理由なのかもしれない。『読む』という負担で十分承認を得たため、物理的な書籍に仕立てる、という工程を経てまで受け取り手に負担を負わせるモチベーションがない。のだと思う。(マジで何回も言うが、完全に俺の身勝手な推測なので無意識にお前らの逆鱗に触れていても怒んないでほしい)


そして、多分これが当初の「なんでわざわざ印刷屋に頼んで即売会会場まで行くの?」という問いに対するアンサーだと思うのだが、自分の負担が大きいほど受け取り手からの負担で得られる爽快感は大きくなるはずだ。
超極論だが、適当にA4用紙にへのへのもへじを描いたものを折り畳んでサークル申請し、それが飛ぶように売れたら「はあ?」だろう。手間と時間をかけるほど、それが売れたとき、感想をもらったとき、拡散されたとき嬉しいはずだ。
おそらく、この【手間数=承認時の爽快感】の式が、わざわざ印刷所に金払って前日に現地入りして当日早起きしてまで本を売りに行く動機になるのだと思う。

そりゃあクセになる。修羅場を超え、ネタ切れを乗り越え、印刷所への連絡や宿の予約などの気が遠くなるマルチタスクをこなし続け、めんどくさくないはずがない。そうした『負担』を積み重ねてやっと当日。会場に来るまでの負担を経験した人が、金銭を負担することで間違い無く読むであろうことを目の前で確約してくれるのだから。SNSでの感想などもらった日にはもう脳内物質ドバドバだろう。
俺は一度感想ヤクザを諫める文章をアップしたとき、サポート機能できわめて好意的なメッセージとともに課金を受け、生まれて初めて文章に金銭を支払われた俺は嬉しすぎてどうすればいいかわからず、しばらくユラユラと左右に揺れた。

そうなると同人小説を出す人はどうなのだろう……多分綾城さんみたいな、次元の違う人なのだろう。俺のように力を入れれば入れるほど変な文章になるやつと違い、力めば力むだけ質と量が充実する人もいるのだろうか。いいなあ。

まあ要するに。

頑張って書いた作文や絵を先生に褒められると嬉しい!

みたいな、長いこと同人やってる人らからすると「何を今さら当たり前のこと言うとんねん」と言われそうな至極当然の、人間のモチベーションのメカニズムの、その一端を持って回りながら説明したに過ぎないのだが……俺がなんかダラダラ講釈垂れると結局こういう当たり前の事実で説明できてしまう結果になることが多い。時間の無駄では?


なお、何度目になるかわからない保険だが、本稿で用いた「負担」は特にネガチブなイメエジを伴わない、「過程」や「コスト」的な意味合いの言葉なので

「同人漫画描きは読者に負担を与えることを目的としているみたいに書かれてつらい。読む人がどうすれば読みやすいかとか考えてコマ割りとか考えてるのにそういう風に見られちゃうんだな。しんどい」

みたいなツイートは慎むように。なんでお前らはそう被害者になりたがるんだ!

まあ同人誌を出したことも、どころかちゃんとしたお話を真面目に完結させたことがない俺がこうやって『同人誌を出す』というしち面倒くさい行為に対して動機。モチベーションについてエアプながら「俺は少なくともそうだ」という考察だけで自分なりに答えを出せたことは、好ましい結果だったと言えよう。

俺にとっては、少なくともそうだ。



(文責:本当は最後の節だけ100円払わないと読めないようにして「作品を売るとはどういうことか、検証しようではないか」みたいな文脈で展開するつもりだったけど誰も読まなかったら悲しいので普通に書いて普通に公開した岡田レイ)

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