書を返し、書店に行こう

 とうとう図書館で本を借り続けることに限界を覚え、「夜は短し歩けよ乙女」の文庫本を買った。

 俺が森見登美彦氏の著作に触れるようになったのは、図書館の『地元の作家コーナー』に並んでいた「四畳半神話大系」を手に取ったことが始まりだった。それまでの「四畳半なんとか」に対する認識は、文学界のApple信者的な奴らが、具体的には学生時代の青春をパサパサのありさまで過ごしたやつらが崇め奉るなんか厄介そうな本という認識で、正味敬遠していた。何より、なんか京都賛歌的な作風だと小耳に挟んでしまったのが大きい。俺は京都の大学に通っていたが、あまり京都が好きじゃなかった。
 俺は氏と地元を同じくすることをこの時初めて知り、図書館側はよほど誇りにしているのか、「四畳半」を3冊ほど置いてある熱の入れように圧され、つい気まぐれを起こし、手に取った。

 読んだ。ハマった。

 「四畳半神話大系」は、異性愛とか師弟愛とか友愛とかそういう、いろいろなLOVEをべちょべちょさせずに書き表していて、そこで描かれている京都は、なんとなく創作上の京都に押し付けがちな、妖狐だの鳥居だのなんだのみたいな、そういう安倍晴明的平安幻想とは趣の異なるファンタジー京都だった。
 終戦を経て街並みが変わってもなお洛内に漂う、住まう人々の営みと、訪れる客人の落とし物で培われた、観光的な外連味を伴わない……幼稚な大人とマセた子供だけが使える魔法で組み上げたテラリウムのような、あの独特の異界感を表現していた。森見登美彦がそのように表現したかどうかは知らない。俺にはそう感じた。感じながら読んでいた。

 左指でつまむ本の厚みも薄くなった頃。ちょうど物語がクライマックスに差し掛かった時、俺の脳内では下鴨泉川町から鴨川デルタまでの道程の情景が鮮明に像を結んだ。
 それらは自分の中にあった無色透明な京都の思い出を、タライ桶に張った水に、針先に乗るぐらいの食紅を落としたように、ほのかに。されど瞬く間に、紺碧の快晴を蝕む夕陽色に染め上げた。
 居ても立っても居られず、俺はたまらず京都行の急行に乗り込んだ。そうだ、俺は京都が嫌いなんじゃない。京都人が嫌いなだけであの街自体は好きだったのだ。俺は今まで自分の気持ちに愚かしいほどの勘違いをしていた。待っていろ鴨川、今行くぞ鴨川。

 

なぜ、俺は今まであの街の魅力に気付いてやれなかったのか!


 京田辺に広がる荒涼とした田畑を車窓から眺めながら、悔やんだ。
俺は本当はお前を愛していたというのに。なぜ今になって気付いたのか。気付いてしまったのか。なぜ俺は学生の頃に京都の町でもっと寄り道しなかったのか。なぜ俺はロクにサークルも入らずにスプリント帰宅ばかりしていたのか。あの街の何を見ていたというのか。正直賀茂川も高野川も同じ鴨川だと思っていた程度の愛で、「四畳半」に出てくる地名などはもうさっぱりで、烏丸線の駅名ぐらいしか覚えていないのだが、その時の俺は"とにかくあそこに行きたい!"という思いでいっぱいだった。

 そして俺は京都駅に降り立ち、鴨川デルタに向かった。かの三角聖地に向け足早に歩く途中(具体的には烏丸五条交差点にある吉野家を過ぎたあたり)で、俺は加茂大橋が京都駅から存外に遠いことを思い出し、四条辺りで歩き疲れたので大丸デパートのイノダコーヒーでカツサンドを食い、河原町の喫茶店でやたらすっぱいゼリーポンチをチュウチュウ飲むと、満足して帰った。
 まあ、賀茂川も高野川も同じ鴨川だと思っていた程度の愛なのだから、こんなものである。

 ……考えてみれば当然のことなのだが、そもそも俺自身がパサパサの青春を過ごしたやつらに属するのでそりゃ読んだら気に入るわけだ。俺は考えればわかることを、いつも終わってから考えている。
 それ以来、良さげなタイトルの作品を借りては暇を見て読み進める習慣が始まった。このときには購入まで至らなかった。ほとんどの読書を立ち読みと図書館で済ませてしまうこの貧乏性は学生時代に身についてから、いっこうに雪がれる気配がなかった。
 貸出期間中に読み切れなければスマホから図書館のポータルサイトにアクセスし、貸出期間を延長。それでもなお読破に至らなければ観念して返却し、すぐさまカウンターで再貸出を厚顔無恥に申し出てまたノロノロと読む。この厚かましい読書習慣で「太陽の塔」に「四畳半タイムマシンブルース」。そして「美女と竹林」と読んでいった。読んでいくうちに、ある事実に差し当たった。

俺は、本を読むのが遅い。
短期的にではなく、長期的に見て。
そもそも、本を読もうと思い立つタイミングがあんまりない……。

わざわざ本を読むためにあえて鈍行に乗ったのに、
いつの間にかスマホいじりながら目的地に着いていた俺の脳内にて


 己が抱える遅読の宿痾(というか、そもそもあんまり読書行為に熱心でない性格)を思い知った俺はただちに対策を講じ、せめて少しでもこの事態に対応すべくちょっと分厚めの本を借りるときは必ず一冊ずつにするというルールを己に課した。
 いっぺんに何冊も借りてしまうと、外出用のカバンは常にパンパンになってしまう。たくさん借りても、家に置いておいて一冊ずつ持ち歩けばよいという岡目八目の指摘もあろうが、まったく不思議なもので手元にない本ほど人は読みたくなるのだ。むしろ、人は手元にある本を読みたくなくなるという見方もできる。
 嘘だと思うなら、お前が部屋の隅に積んである未読本の冊数を一つずつ手に取って数えてみればいい。何冊あったかは知らんが、久々に手に取ったというのにお前はページをめくろうともしなかったはずだ。

 なので、氏の作品の読書遍歴は一年ちょっとかけたにも関わらず、「夜は短し」でようやく5作目になるのだが、この読書がまあ中々進まない。借りたのがちょっと忙しい時期だったのもあるのだが、とにかく読書が進まない。読む気が起きない。「手元にある」というのもそうなのだが、もう一つ、何か別の要因が読書を阻害している気がしてならない。主な読書の場である、行き帰りの電車で座れないからだろうか?わざわざ空いている準急に乗って自分を読書に追い込んだというのに結局スマホに逃げてしまったので、それもなさそうだ。ということは、スマホがあるから俺は本を読まないのか。

 では、スマホの電池が切れていたらスムーズに読書が出来るのでは?しかし、それだと知らない単語が出てきたときに調べる手段がない。俺は知らない単語にぶち当たるとすぐ調べないと気が済まない性根なのだ。余裕をもって充電された検索端末は俺の読書行為に必携である。
 ……つまり、こうだ。俺はスマホの充電が無ければ安心して読書が出来ないし、スマホが充電されていれば俺は未読本そっちのけでTwitterを開いて人差し指の上下運動に専心してしまう。ということだ。なんたるジレンマの堂々巡りか。
まかり間違っても、ただのスマホ中毒などであろうはずはない。ないんだよホント。

 とは言え、俺の読書速度が捗々しくないからといって別に俺は困らない。そもそも"読みたくない"から読んでないだけで、この読書不振自体は俺の意に沿った結果ではある。問題は"読まなければいけないのに読みたくない"ということだ。
 "読まなければいけない"とはとても難儀な義務で、課題読書でもなんでもそうだが『読む』という行為は強制された途端にその難易度が跳ね上がる。
自分が読みたくて借りてる本なのだから義務もなんも無いだろう。と思うかもしれないが、借入図書の読書には絶対に背けない義務がいくつかついて回る。その最たるものが『期間内の返却』だ。あとは汚さない、壊さない、折らないとか、そういう当たり前のことだ。

 そもそも図書館の本とは、薄かろうが厚かろうがためになろうがなるまいが上品だろうが下品だろうが、れっきとした"公共"の財産なのだ。
公共のものだからこそ俺のような大して読書が趣味でないような人間でも、「あなた、本当に本を愛しているのですよね?証明したかったらこの文学的教養を確かめるテストに答えてクダサイッ」などと窓口で言われることなく借りることが出来る。
 公共のものであること。つまり、俺以外の誰かもこの本を読むことが出来る。長くとも、俺の貸出期間が過ぎるまで待てば読める。読めなければおかしい。権利としてそうなのだ。だからこそ俺も借りられる。

 つまり、俺は図書館資料の持つ公共性を利用して気になる本を借りているのだから、俺はこの公共性を守らなければならない。よって、俺は今後の俺のためにも、図書館資料の公共性の維持のため、期間内に返さなければならない。これを義務と呼ばずしてなんだ。この義務の不履行は図書館宣言の「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する」という一文に反する。例え反してなかろうが、借りた本を返そうとしないクソッタレを俺は個人的感情として許せないのでそのクソッタレになるわけにはいかない。

 そして、その義務の履行には、決して「借入資料の完読」が必須でない。
読まなくても、返せばいいのだから。返しさえすれば、読まなくていいのだから。
 そんな心構えで未読延長、未読返却、未読再貸出を繰り返しているうちに、ついに「夜は短し」に予約が入った。『あなたが借りている本を借りたい人がいるので、読み終わるなり貸出期限を迎えるなりしたら返してくださいね』と、メールが届いたのだ。

 そりゃ、来るよな……。

 「夜は短し」は、その売り上げが100万部を超えるベストセラーノベルだ。そんな本をあれだけ利用者がいる図書館で俺しか借りないわけがない。むしろ、俺が借り続けていること自体が迷惑なのだ。何せ俺が返すまでの間、今回予約を行ったその人は読みたい本を読むことが出来ていない。図書館に足を運んで、「森見登美彦エリアはどこかな?」と歩き回って、「『夜は短し』ないじゃん」と首を傾げ、検索端末で貸出中であることを知り、カウンターなりネットなりで予約手続きを行い、待つことを選んだ。その時読みたかった本を、俺のせいでその時に読めなかったのだ。
いずれ読めるからといって、その待期期間をいたずらに伸ばすのはあまりにも勝手が過ぎる。
 しかも、その間の借り主である俺はそれを読んでいないのだから、誰も幸せになっていない。


 返そう。そして、買おう。

 俺は図書館併設の返却ポストにそっと本を投函すると、逃げるように近くのジュンク堂に駆け込み、「夜は短し歩けよ乙女」の文庫本を買った。それをカバンにしまい、家に帰った。帰宅後に本を取り出すと本は曲がっていた。図書館で借りたハードカバー本と違い、文庫本は柔らかく、コートフィルムによる装備も施されていなかった。
 俺は第二章の『深海魚たち』の冒頭までページを飛ばし、しおりを挟んだ後、今の購入でhontoポイントがいくらまで貯まったかを確認した。
 何年も本を買っていなかったので、それまでのポイントがすべてが期限切れになっており、やるせない気持ちになった。

 どうせ読まないなら、買わなくてよかったのでは……?

 数日後、カバンの底で「乙女」の表紙のカドが少し潰れているのを見つけると、『ムダヅカイ』の文字が頭に浮かんだ。その浮かんだ五文字を、甘んじて受け入れた。
 これで良いのだ。俺は読むために本を買ったのではない。『借りないため』に買ったのだから。県民よ。あるいは市民よ。遺憾なく借りてくれ。今まで悪かった。俺はもう「夜は短し歩けよ乙女」を借りないだろう。だってもう持っているから。
 いつか読むかもしれない。もう読まないかもしれない。それはわからない。でも、『借りない』ということだけは絶対だ。
 夜は短し、読むまで長し。借りるも長し、返せよ乙女……。

 購入から数週間後。普通に完読してしまった。いっちょ前に都々逸もどきまでしたためたというのにこれはなんだ。あの牛歩ペースはなんだったのか。歩むどころか完全に寝こけているとしか思えないほど滞っていたのが、スマホなんてほっぽらかしで羽海野チカによる解説ページまで突っ走ってしまった。なぜか?

 俺は「乙女」の読後、なるほど!と腑に落ちた。内容にではなく、なぜこれまで読めなかったのか。なぜ今回読めたのかについてだ。

 思うに、人が手にした本を読む気になるかどうかというのは金を使ったか否かなのかもしれない。勘違いの無いよう言っておくが「せっかくお金を払ったのだから」みたいな、"元を取る"的な考えに基づいた心理の話ではない。
 そも、趣味に基づいて身銭を切って入手した本というものはなんの責任もついて回らない、完全な自由図書だ。
 読もうが、読むまいが、売ろうが、捨てようが。著作物としての扱いさえ守ればどうしようと俺の自由で、そして自分の意志で「いつか読む」と臍を固めて買ったものなのだから、売ったり、捨てたり、読まないという選択肢は消え失せる。後に残った「読む」の選択肢は、やれ課題図書とかやれ感想文みたいな、読書行為の純度を濁らせる煩雑な義務も纏わず、そこにはただ純然たるエンターテインメント文化書物だけが光り輝きながらページをつまむ手を待っている。

 ある人が、好きな本を手に入れたとしよう。
その本は返さずとも良い。手放しても良い。手元に置いても良い。読まなくとも良い。読んでも良い。

 あらゆる枷を外された本は、その持ち主に自ずから「読んでも良い」の選択肢を手に取らせ、持ち主はその中に足を踏み入れていく。

 読書無精よ。もし読書が進まないことに悩んでいて、その本を誰かから借りているならば、ただちじゃなくてもいいから自分で買うべきだ。そうすれば多分手が動く。
 書を持ち、街に出よう。書を返し、書店に行こう。

 俺は長いこと背負っていた読書責を降ろせたところで、こうして本に出逢ったのも何かのご縁。と思い、Netflixで「夜は短し歩けよ乙女」のアニメ映画版を視聴することにした。ふと、俺は金を払って契約しているNetflixを数ヶ月に一度しか使っていないことを思い出しかけたが、さっきたどり着いた金を払うこと云々に関しての結論がフイになることを恐れ、雑念を振り切って湯浅政明の描くモリミーランドへと原作との相違点を比較検証堪能するべく思い切ってダイブした。


 ………ぶっちゃけ微妙だった。

原作との相違点もそうなのだが、こうして通しで見るとなんかピンと来ないというか、「四畳半神話大系」のようなカチッとハマる感覚が得られない。

 まずいことに気が付いた。まさかとは思うが、もしかしたら本の責任がどうのとかではなく、ただ単に「夜は短し歩けよ乙女」が俺の感性にあんまり合わないだけだったのでは?
 よく考えたら、俺は四畳半タイムマシンブルースも太陽の塔も普通に図書館で借りたやつを読んでいたし、金を払って契約しているNetflixを数ヶ月に一度しか使っていないのもただ単に見たい映像作品が無いだけな気がする。
 ただ今を以って、これまでの考察は完全に泡沫に帰した。本稿を開いたあなたが時間を無駄にさせやがってと憤ることもやむを得ないと覚悟の上だが、このテキストを書くのに費やした手間を考えると俺の方が遥かに時間を無駄にしているので矛を収めてほしい。

 まあ、そこまで感性に合わない本であっても読了までは走り抜けることが出来るのだから、やっぱり購入というプロセスは円滑な読書の手助けになるのではなかろうか。ということでここはひとつ。それにしたって、まあ、この結論は嘆息モノだ。考えてみれば当然のことだったと思うのだが…。

 俺は考えればわかることを、いつも終わってから考えている。

(文責:自分の文体が森見登美彦の影響受けてないかちょっと心配で、もしそうなら村上春樹の影響受けてLINEやSNSに投稿する文章まで村上春樹風になってるハルキストみたいで嫌だなあと不安な岡田レイ)

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