【キル・ゼム・柳生正宗】

……ねばついた熱気がさ迷う夜のことだった。

空には淀んだ大気越しのおぼろ月と、目を凝らさねば見えない六等星。明かりとしての能力は期待できそうにない。
この東大寺大仏殿前という、深く長い歴史を湛えた仏閣を照らす光も、その滲んだ満月と、まばたけば盲点にかき消えそうな星しか無かった。気休め程度に八角燈籠が灯ってはいるが、光度は月とどんぐりの背比べ。光源としては頼りない。

手を伸ばせば夜闇に腕が呑まれようという、常人では足元さえ不覚な環境。

“常人”では。

大仏殿の真正面の中門の屋根に前触れもなく人が現れた。
無骨なカーキ色の竹刀袋を提げた、黄土色のブレザーの学生服を着た男であった。
屋根の上から大仏殿の前庭を一瞥すると、躊躇なく飛び降り危うげなく着地を決めた。


「自分が超人であることを忘れそうになるよ」

竹刀袋の紐を解きながら、男は語り始めた。

「何せほんの数年前まで凡人だったし、与えられた力はただの剣術ときた」
「洗脳や、雷雲を操ったりする同僚もいる中ではえらく地味だ。“我々”は副作用めいて劇的に身体能力が向上するが、剣術などそれの延長線のようなものだろう?」

男は竹刀袋から黒漆塗りの鞘に収まった一振りの刀を出すと、竹刀袋を夜風に乗せて境内の隅へと捨てた。

「だから、戸が閉じた門を飛び越えるという発想に行き着くのにちょいと難儀した。待ったか?名無しの権兵衛」
「ハッタリはよせ」
帯刀した男の呼びかけに応じるように、八角燈籠の影からもう一人の男が現れた。彼が“名無しの権兵衛”らしい。
「本当に剣術が能力だとして、それを話すわけがない。本命があるはずだ」
「ハハハ!能力を『騙る』とはよく言ったものだ!意図しない洒落は得てして場を盛り上げるものだが…この剣呑な空気でその効果は期待できないな。いや失敬」
「一人でにヘラヘラして、何が剣呑だ」
「ンッン、度々失敬。この筒吼叶多(つづぼえかなた)。謝罪つかまつる。が…」

【続く】

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