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芝生と彼女とショートホープ「一面の青」

五月。心地良い揺れに微睡んでいると、無機質な女性の声で目が醒める。
「まもなく、新宿御苑前です」

そうだ、僕はここで降りるんだ。
大学には行かず、また、今日も。
僕はボーリング球を持ち上げるように、項垂れた頭を上げてから立ち上がると列車を降りた。
平日の昼間のプラットホームには、携帯を耳に当てたサラリーマンと余生を謳歌している老人達があった。
僕はそれらを避け、慣れた足取りで階段を登り、改札を通り抜けた。
出口を抜けると、気持ち悪いくらいに強い陽射しが僕に振り返かり、思わず目を細めた。
僕は目の前の交差点を渡り、公園へと向かった。

洒落た喫茶店が並ぶ路地を通り抜けると、公園の入口にある大きな門に辿り着いた。
僕はそのまま門を潜り受付を済ますと、入場ゲートを抜けて園内に入った。

公園は大きな松やシイの木が鬱蒼と生い茂り、上からの陽の光を幾分か遮っていた。
数日前に雨が降ったからか、森の中だけ、少しばかり空気がじめじめしている。
耳を澄ますと、何処かで聴いたことのあるような鳥の鳴き声が何処からか、森の中で軽やかに響いていた。

彼らは何を求めて何の為に鳴いているのだろうか。木々が遮ぎりきれなかった木漏れ日が照らす小道、木々の間を縫うように張り巡らされたその小道を、僕は当てもなく歩きながら考えていた。
しかし答えなんて出るわけない、当然だ。
同種の人間の考えすら解らない僕に、鳥のそれなんて分かるわけないじゃないか。
だから僕はその事について考えるのを辞めた。答えが出ない思慮なんて意味が無いのだから。
そもそも、この世には意味のある思慮なんて存在するのだろうか。
全ての生き物は皆平等に最後は死を迎えるのだから、考えたって仕方が無いのではないか。
だが、僕の浅はかな思考で辿り着いた答えなんて正解な筈が無いのだけれど。

そのまま陰鬱な湿気に包まれた小道を歩いていると、そのうちに森が開けて一面の芝生が視界の中に飛び込んできた。
周りに人は無かったので、生えていた木の下に場所を見つけて座り込み、ポケットからショートホープの小箱と、安い黒のライターを手繰り、一本取り出して咥えると、右手のライターで火をつけてゆっくり深く吸い込んで、口から煙草を左手で離し、今度はゆっくり深く吐き出した。
ふと目を遣ると、一面に生えていた芝生はとても力強く青々としていて、とても輝かしく見えた。
その様に見えたのは陽の光に照らされているからでは無く、妬みや嫉みに近い感情に起因しているみたいだった。
それくらいの事は自分でも分かった。

大学に行かない理由はごくごく平凡な理由であった。目的も無く入った大学に意味など見いだせる訳なく、少しずつ行かなくなり、今では本当に最低限しか行かなくなってしまった。
そんな陰の様な自分が、自分自身では無く、太陽に照らしてもらい、輝かせてもらっている芝生に、羨望の感を抱くのは当たり前であった。

僕は指に挟んでいた、短くなったショートホープを、脇の木の根に力強く押し付けて火を消すと、そんな芝生に寝っ転がってみた。
使いもしない教科書が詰まった鞄を枕にしてみたのだが、その硬さ、形の歪さ以上に寝心地が悪かった。
でもいざ、だだっ広い草原に寝転がってみると、とても気持ちが良かった。
視界には風に吹かれて波の様に揺れている枝葉達と、儚いが堂々と浮いている綿雲、そして落ちてきそうなぐらい透き通った青。
一面の青。

それだけだった。

風の音以外何も聞こえない新宿の草原は、そこだけ周りから取り残されてしまったみたいだった。
時間が止まっているのかもしれない。
だが、視界の中を少しずつ横に流れる雲だけが着実に、僕に時間の経過を教えてくれた。

雲は資本主義とは別の世界で生きている。
時間に追われるこの世界で、行く当ても無く緩やかに世界を旅しているのだから。
この時は本当に自分も雲になりたいと思った。
それから暫くの間はずっと雲を眺めていた。
ここに通うようになるまで、今まで雲をまじまじと眺める事があっただろうか。
今まで見る事は無くてもそこには確かに存在していた筈なのに。
でもここから見える雲はいつもの雲と違ってどこか美しい。
買いたての綿飴の様に、とても新鮮そうだった。
これまで雲の美しさを知らなかった事を少しだけ後悔した。

それから一体どれ程の時間が経っただろうか、ポケットの中のスマートフォンが振動し、僕に電話が届いている事を告げた。
僕は携帯電話を耳に当てた。

「もしもし」僕は気怠そうに言った。

「今日もあなた学校来てないでしょ。どこにいるのよ」

「新宿御苑だよ。とても雲が綺麗なんだ」

「そんなの三田からだって見えるわ。早く来なさいよ」
彼女は少し怒っているみたいだった。

「同じ雲でも、あんな陰気臭い所で見るのとここで見るのとじゃ雲泥の差だよ。そもそも、ここから見える雲とそっちから見えている雲、それらが同じかすら分からないよ」
と、僕は言った。

「またそうやって訳の分からない事を言って。まぁあなたの中に学校に来る意思が無い事は分かったわ」
彼女は今度は飽きれているみたいだった。

「分かってくれて嬉しいよ」

「あともう数十分したら授業が終わるから、そしたら私もそっちに向かうわ。あなたが見ている雲がどれほど綺麗なのか私も知りたいし」
僕が見ている景色に少しは興味を持ってくれたみたいだが、それでもまだ、彼女は飽きれているみたいだった。

「分かった、君が来るまでここで待っているよ」
僕は通話を切って、スマートフォンを芝生の上に放り投げた。

クールに振る舞おうとしたが、多分僕の声からは昂ぶった気持ちが漏れていたに違いない。
君と見る雲はまた違って見えるのだろうか。早く二人で雲を見てみたい。期待の気持ちがどんどん膨らんで、弾けてしまいそうだった。

風が気持ちいい。
木の枝がテンポよく触れ合い、擦れて、心地の良い音を奏でている。
だんだん瞼が重くなってきた。
彼女はいつ来るのだろうか。
風と音が僕の瞼を押さえつけて、開ける事を許さない。
意識が少しずつ沈んでいく。
このまま眠ってしまっても、きっと彼女が起こしてくれるさ。

そのまま、深く深く沈んでいく。
力強く輝いている、透き通った一面の青の中に。

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