『文化の4象限』を用いて〇〇を考える

遅いインターネットに出てくる『文化の4象限』という概念がある

(いい本なので買いましょう)

今回はこの概念を使って自分たちの身近にある〇〇について解析度をあげていきたい

〇〇を秘密にして引っ張ることは嫌いなので先に言っておく

〇〇は野球、ドラクエ、SNS、仕事、トレーニング、ヨガだ

まずは「文化の4象限」について簡単に紹介する

縦軸を『自分-他人のストーリー』 横軸を『非日常-日常』と設定すると

非日常×他人=第1象限

日常×他人=第2象限

日常×自分=第3象限

非日常×自分=第4象限

となる

この言葉だけではピンと来ないと思うので野球に当てはめてみる

【野球を考える】

非日常×他人=第1象限 甲子園をみる

他人の特別なストーリーに対する感情移入を楽しむこと

最近より一層それを演出する傾向が強くなり、感動エピソード盛り盛りの番組構成になっていることが多い

双子がいるとだいたい特集が組まれる

日常×他人=第2象限 日常的にテレビでプロ野球をみる

日本ハム移転前の北海道は巨人戦が放送されており、だいたいどこの家庭も親父がテレビを占拠していた

チャンスで打てない原に文句を言ったり、松井のホームランにちょっと大きめの声を出すのが毎晩の光景だった

それが日常×他人のストーリーだ

日常×自分=第3象限 プロ野球球団が地域に根付く 

日本ハムの北海道移転がこれに該当する

テレビでみる巨人戦から地元のチームを応援する文化が出来た

移転当初は

「べ、別に日本ハムになんて興味ないんだからねっ」

と言っていたツンデレ北海道民もなんだかんだいまは日本ハムの勝敗が気になってしまう

それが自分×日常だ

非日常×自分=第4象限 イベント的に球場へ行く

「野球をみる」という目的もあるが札幌ドームまで行くために友達や家族と地下鉄に乗ること

福住駅で降りてから札幌ドームまでの微妙な距離を歩くこと

ドーム内の微妙な飲食店で何を食べるか迷うこと

(最終的にモスバーガーに落ち着くことが多い)

スタンドの急な傾斜の階段を昇り降りしながら席を探すこと

改善点も多い札幌ドームだが、その無駄も含めて球場に行くという1つのイベントを楽しむことを指す

なお改善点が多すぎる結果、札幌ドームから北広島に移転することになった


これで文化の4象限のイメージが出来たと思う

趣味趣向として考えるとどれが優れいてるというわけではないことがわかる

サービスを提供する側の戦略を考える上でもこの視点は重要になる

それをテレビゲームの戦略を例に考えていく

【ドラクエを考える】

非日常×他人から非日常×自分へ

基本的にテレビゲームは非日常×他人に該当する

しかし人間は壮大な他人のストーリーよりも自分のストーリーを好む

(たとえそれが凡庸であっても)

そこでドラゴンクエスト(以下ドラクエ)は壮大な他人のストーリーを自分のストーリーに投影させる戦略をとった

初期のドラクエの主人公は勇者が多い(Ⅰ~Ⅳ)

凡庸な自分がゲームの中で主人公になり魔王を倒して世界を救うヒーローになる

だからドラクエは主人公の名前を自分で決めることができる

クラウドなんて名前はついてない

作品によっては仲間や職業も自分で決めることができる(踊り子に恋をして勝手にパーティを脱退したやつもいたが)

Ⅴでは嫁選びも自分で決める

ゲーム内における使いやすさはフローラの方が有利だが、幼馴染補正と彼女の境遇を考えビアンカを嫁に選んだプレーヤーも多いはずだ

ドラクエの主人公にはセリフがない

これはプレーヤー自身でドラクエの世界を作るため、セリフはその世界にとっては邪魔になると考えたからだと思う

だから天使が主人公のⅨは自己投影にしくいので印象が薄かったり、自分だけの世界であるはずのドラクエの世界がオンラインで他人と共有するⅩだけやっていないというプレーヤーは多い

他人の非日常クオリティを上げる

一方、ファイナルファンタジー(以下FF)は他人の非日常ストーリーの質をあげる戦略をとっている

かっこよくて魅力的な主人公、キレイなグラフィックでリアルな世界観を作り上げプレーヤーを魅了する

ドラクエが自分のストーリーだったのに対してFFは他人のストーリーだ

これ以外にもFFがとった戦略があるはずだが、ここでFFについて書くことをやめる

なぜなら自分はⅤとⅥしかやってないからだ

非日常×自分から日常×自分へ

次はいま(2020年5月)人気の「あつまれ どうぶつの森」(以下あつ森)の戦略について考えていく

あつ森では父親をゲマに殺されたり、主人公が奴隷になったり、石にされたりしない

ゆっくりと魚を釣ったり、家具を作ったり、友人の島へ遊びに行ったり、自分たちの日常となんら変わらないことを自分の意志で行うことができる

通常のゲームではある程度のシナリオ(魔王を倒しに行く理由と工程)が決まっていたがあつ森にはそれが存在しない

非日常×他人のストーリーを自己投影させたドラクエに対して、あつ森は自己決定権のある日常へゲームを変化させた

あつ森のヒットを考えると「日常×自分」がキーワードなるが、それを語る上でSNSの発展は欠かせない

FacebookやTwitterに代表するSNSは自分のストーリーを容易に発信できるようにしたが、そこには弊害もあった

【SNSを考える】

ここに関しては「遅いインターネット」を読んでもらえればいいので簡単にだけ触れる

人間は「他人よりも自分のストーリーに興味を持つ」

この欲求に対してSNSは容易に答えてみせた

SNSは「テレビ画面で他人のストーリーをみることだった文化」を「スマホで自分のストーリーを発信する文化」へ変えた

ここで1つのシステムから問題が生じた

自分のストーリーが他人に評価されるシステム(いいね、リツイート)により自己承認欲求を満たす行為だ

いつの間にか自分のストーリーは他人からの評価によって一喜一憂するものになってしまった

共感を得るためのツイートをする

はたしてその行為が自分を豊かにすることに繋がるかは疑問だ

セラピストやトレーナーのSNSの発信についても同様だ

タイムラインの空気を読んでの発言、「いいね」を生むためのツイート

最近では「炎上するかもしれませんが」と前置きしつつも共感を得ようするようなツイートも目立つ

それらが完全に悪いわけではないが、どうしても発信がキャッチーでシンプルで万人受けするものになってしまう

自分のTwitterは野球関連の発信をしているのだが、どんなツイートが多くの共感(いいねやリツイート)を得られるのが実験してきた

その結果、「見ただけでなんとなく勉強になってマネできそう」というものが多くの共感を得られた

逆に複雑で深く内容を考えないと理解できないものは多くの共感を得ることが出来なかった

ここにSNSの問題点があると考える

簡単に自分のストーリーを発信できてしまうので深く他人のストーリーを理解しなくなってしまった

簡単に答えを検索する習慣がついてしまい、深く考えることを放棄している状態になっているのが現状だ

ましていまは「自ら発信する行為そのものを手放しで称賛する風潮」がある

「受け身ではなく自発的であることが素晴らしい」と

その行為自体に反対はないが、他人の意見の上っ面だけをコピーするような質の低い発信は自らの成長を伴わないことになる

質のいい発信をするためには、たくさんの良質な他人のストーリーを理解し、それをしっかりと自分のフィルターを通す必要があるはずだ

【仕事を考える】

では、なぜ自分たちは良質な他人のストーリーを理解し、質のいい発信をすること、つまり何かを学ぶ必要があるのか考えてみる

ここで文化の4象限を思い出してもらいたい

自分の生活スタイルからそれに費やすを考えた時に多くの人が日常×自分の時間を過ごすことになる

そのうちの1つが仕事だ

仕事が充実しないと自分×非日常、他人×日常、他人×非日常のためだけに生きるようになってしまう

休日に遊びにいくことが楽しみ、自宅でYouTubeをみるのが楽しみ、他人のニュースに一喜一憂する

その行為自体はそれぞれ人生を実りあるものにしてくれる行為ではあるが、多くの時間を費やす日常×自分が抜けてしまうのはもったいない

だから自分たちは仕事について学ぶ必要がある

他人のためにではなく、自分のために

自分は理学療法士という仕事であるが「他人のために勉強します」なんて人は信用ならない(ことが多い)し、たいして勉強していない(ことが多い)

いままで出会った人の中でよく勉強しているな、楽しそうにやっているな、信念をもってやっているな、と思った人はみな自分の経験や価値観が原動力だった(結果的に他人のためになってるんだけど)

ところで、自分たちセラピストやトレーナーは他人の「日常×自分」に介入することが多い

そこへの介入の仕方について考えてみたいと思う

【トレーニングを考える】

日常×自分に介入するためのトレーニングがクライアント(患者)にとっての非日常×自分になっていることが多い

ジムにいく、ヨガスタジオにいく、リハビリにいく、というイベントになっている

イベントに集客をするだけならキャッチーで楽しい方がいいかもしれない

「ジムにいって仲間と話して楽しむのが好き」

「きれいなヨガスタジオにいくのが好き」

こんな風にクライアントに思ってもらえるようにする

集客だけなら大いに結構

ただしその人の何かを変えたいなら非日常×自分のトレーニングが日常×自分へ反映されているのかを理解する必要がある

それが「トレーニングのためのトレーニングになっていないか」という視点である

日常×自分に介入するためには動きについて深く理解する必要がある

「なぜ座っている時に踵を浮かしているのか」

「立っている時にどこから動いているのか」

キャッチーなトレーニングをやるだけでは到達できないところまで深く考える

自分が〇〇法や〇〇トレを手放しで推奨しないのはそのためだ

その方法自体は素晴らしいものであることが多い

しかしそれを提供する側のリテラシーが低いことが問題であると考える

マッサージ1つでも提供する側の技術によっては痛みをとるための最高の方法にもなるし、逆効果になることだってある

そのためにも自分たちは深く学ぶ必要がある

SNSのタイムラインに流れてくる情報の上っ面をなでるだけでは到達できないくらい思考も技術も深く潜っていく必要がある

トレーニング1つでもそれがただの非日常の一時的なイベントだったのか日常へ反映されるものだったのか、その見極めも大切になってくる

ここで1つのボディワークについて考えていきたい

ヨガだ

【ヨガを考える】

数あるボディワークの中で今回なぜヨガを選択したのか

それはヨガがエクササイズではなく哲学だからだ

哲学とは物事の根源、原理を求める学問のことだ

ヨガとは輪廻転生からの解脱のため、いかに生きるかについて古人の経験による知恵を集結させた哲学である

ヨガの目的はただ1つ、心の作用を止滅することである

リラックスすることでも、ポーズをとることでも、仲間と笑いあうことでもない

それらはヨガを行う上での副産物に過ぎない

心の作用を止滅させるため呼吸を、身体を、感情を、思考を整える

その手法が考え方やヨガのポーズや呼吸法だったり多岐にわたるが、根本にはどれも日常×自分の安定のために行う

しかし現代のヨガはどうなっているだろうか

仕事帰りにおしゃれなヨガスタジオに通うこと、インストラクターや仲間に会うこと、その場でエクササイズをすることなど非日常を楽しむためのイベントになっていることが多い

集客を考えるとその方がキャッチーであり、ヨガを学ぶきっかけとなるのは良いことだと思うが、インストラクター側が本質を理解せずイベント的にヨガを伝えてしまっているのが問題だ

今回のパンデミック(2020年4、5月)によりオフラインでのヨガクラスの活動を自粛したスタジオが多い

オンラインに移行したスタジオもあるはずだ

そこで今まで何を提供していたのか質が問われる

「やっぱりオンラインだと雰囲気が出ないね」とか「一緒に動きたいね」とか「オンラインは疲れますね」いう意見がインストラクター側から聞かれる

確かにそれもまぎれもない事実であると思うが、今まで伝えていたそれは本当にヨガだったんだろうか?

直接会うことでしか伝えられないこともあるのも事実

しかし一緒にイベントに参加するための関係はヨガではない

もしインストラクター側が他人の日常×自分を充実させる術をしっかりと伝えていたなら物理的な距離はあってもそこに安定はあったはずだ

【終わりに】

今回、宇野常寛さんの「遅いインターネット」から文化の4象限お借りして自分たちを取り巻く〇〇について考えてみた

検索すれば簡単に情報が手に入る世の中だからこそ深く考えることの大切さをもう一度取り戻してほしい

そこには現代の自分たちの行動から忘れ去られている「深く考え学ぶ」行為自体の尊さがあるはずだ

それはすぐ答えを導かない行為かもしれないが、その行為自体が自分を成長させる糧になっていることを再確認してほしい

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