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【感覚の野放し】「コップに水を入れて飲む」

(これは三月末に書き始めた文章になります)

 「コップに水を入れて飲む」
これを今この文字を読んだ瞬間に、その場で、演じてみてください。あなたは片手でコップを取ります。それはどこにおいてあったコップですか。質感、形状、はどうですか。水はどこから持ってきましたか。コップにどのくらいの水を入れて、どのくらい飲みますか。どんな喉越しですか。水は冷たいですか。手に取り、飲み込むまでにどこの筋肉が動きますか。

 舞台に立つ人間としてお芝居をするようになってから、自分にとっての”演技”の概念が現在形で変化している。

 私は”演じる”ことを基本的に好んでいる人間だ。何においても自分のカオを意識し、自己内に住む仮面を付け替えるかのように過ごしている。が、今この無理矢理言語化した文章を読み返すととっても気持ちが悪い。笑えてしまう。飛んだ誤解が生まれそうだ。私は常日頃何かを「演じている」という意識があるわけではないし、自分は八方美人だ(?)とか自分以外の他の誰かになりたい(?)とかと言いたいわけではない。その仮面みたいなもの自体全てが私であるし、そこに愛情がある。ん、この言い方もどうなんだろう。でも、まあ、そう言うことだ。そして私はその瞬間瞬間で自分だけでなく、その場の空気や、自分が伝えたいものの「こうみせたい」をイメージ通りに叶えることが好きだ。ここに「演じる」という表現が相応しいかは正直よくわからない。しかしもしここに重なる要素があるならば、私は「演じている自分」と言うよりは「演じると言う行為」が好きなんだと近頃解釈をした。すなわちそれは自分にとって  ❉第三者の目線に立つ意識  だ。そしてそれとはまた別に、しかし同時進行で、自ずと日常の生活においてのその時々やあらゆるシーンに応じて、自分という人間の生きている箇所が異なると思う。多くの人間は、「今隣に誰がいるか」、「自分はここではどのようなポジションにいるか」によってほぼ無意識レベルの範囲内に、しかし意識的に「自分をどう見せるか、どう見せたいか」を識別・判断している。と、私は思っている。

 ”演技”の基本的概念は「それをみる人がいること」を前提としている。ただ、みる人関係なく稽古の段階から演技に漬け込むとき、たいてい私は想いに溢れる。溺れる。なぜだろう。それがどんな思いであるか。実に多様であるが、例えばこの「コップに水を入れて飲む」ことなんて、私からしたらこの人生で何度としてきたであろう行為である。しかしこれを何もない現場、もしくはコップや水があるその場でさえも”演技”となるとどうも難しく考えてしまう心理が働く。この原因はきっと、日頃この自分にとってシンプルで習慣なる行為には、細かな意識がまるで向いていないことが一番大きいだろう。どんな水でどんなコップで果たして自分の感覚はどうか。いざ考えるとこれが中々難しい。いかに日頃自分の感覚を自分の中に閉じ込めずに、外に放り出すか。そうして感じたことをどれだけ吸収し味わう感覚が在るか。演じる瞬間はそんな自分の”今”を実感し放題だから面白い。時々突き当たる壁が自分としては未熟すぎると感じてしまうもので、とんでもなく悔しくなる夜がある。両目から大粒の涙をこれでもかと流しながら、いてもたってもいられなくなり、家を飛び出し走り出す夜。そんな時にこそ、その瞬間の”今”に精一杯浸っておく。”今”この心と身体で感じている全てがきっと次演じる場に生きる自分の何かに役立つとわかっているからだ。だからこの想いを言葉に落としている今この瞬間にまで、私は神経を張り巡らせる。うん、そうだ。私はそんな風に全瞬間を生きている余裕も技術も持ち合わせてはいない。けれども思いったったその時々にそうやって至る所に意識を巡らせると、"感覚"という二文字がどんどん働いてみせるようになる。そして何より、いざ自分が演じる時にこそ、この感覚を野放しにする。あえて、こうして次演じる瞬間の為に遮らせた感覚を思い出そうとはしない。それすらも忘れて今に全身全霊の全フォーカス。すると、その一瞬一瞬に肌で感じる空気のあたたかさや冷たさ、目を見て通じる相手の意図、指先一本でも逃さないで目の前の世界に”生きる”ことが叶う。ような気が私はするのである。

 日頃思い立った時、「”今”に精一杯浸ること」への意識が向くと、いざ演じる瞬間、「”今”を精一杯生きること」ができる。とするならば。『演じる』という行為は『いかに今を生きているか』という抽象的だが奥深い観点に関して追求・試行を重ねるもの。という解釈を私はするだろう。

 お芝居を始めたばかりの私には、まだまだ最初の扉に手をかけた程度の思考のような気がしてしまうが、正直"演技"というものは私たちの日々の生活に深く根差していると感じざるを得ない。もっと言えば「生きること」や「ここに息をするということ」をより深い意味で理解し、役や相手を通して「自分」をさらに知ることのできるかなり奥深い世界だと言うことに気づいてしまったような気がする。実際それは目に見えることのみならず、私たちのこの目には見えないあらゆるモノに対しても"感じる"ということであり、エネルギーという名の私にとってはとんでもなく興味深いテーマにおける可能性を秘めているのではないかと。そう考えるだけで夜も眠れずただただ一冊の台本から壮大な夢を広がせる今の私であった。






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