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はじめて触れた人の死について

おじいちゃんが死にました。
79歳でした。

今まで生きてきて、家族と呼べるような人が亡くなるのは生まれてはじめてで、火葬場の外に広がる緑の丘を眺めながら、とにかく「不思議だ」と思いました。

祖父の死の知らせを受けたのは木曜の朝、母からのメッセージ一通。
「じいじが亡くなりました」
「葬儀の連絡は追ってまた」
このところ祖父は寝たきりで、私が行っても誰だかわからない状態ではあったので、ついにそうなったんだなーと、その瞬間はそれだけ思いました。
その後にある意味何も変わらないんだなと、血が繋がった親族が亡くなってすら、この情報を伝えられなければ、知らないまま生きていけてしまう。その何も変わらない日常が、間延びしたみたいな水色とあわさってひどく空っぽのように感じたことを、なぜかその青さと共に鮮明に覚えています。

死は個人にとっては特別だけれど、世界にとってはありふれた日常なのかもしれません。

その時の私は、どうしてだかわからないけれど、「普通の日常を送らなければならない」気がして、悲しんだり/揺さぶられたりすることがいけないことだと感じていました。
というか、生活が死(特別)に侵されることが恐ろしかった。祖父が亡くなったこと、それ自体より、それ(死)が私に何を与えてくるのか、わからず怖かった。(祖父に会っていなかったそのときは、彼がいなくなることについての実感はなかったため、なにかまだ思うことはありませんでした)

死は私に何を与えたのでしょうか?

実家に帰って、既に冷たくなった祖父はただそこに有るだけでした。なんとなく沢山泣けて、それを見てまたおばあちゃんもまた泣いて、おじいちゃんの話をしました。元から痩せていたのに、ほんとに骨と皮だけで、でもまつ毛は長く、鼻は高いね。
すこし口が空いてるね。頭綺麗ね、髪、髭とかお母さんが整えたんだよ。やっぱり器用だね。見た目そんなに生きてた時とそんなに変わらない。そのとき、おじいちゃんは何を思ってたのかな。

あんまりよくわからなかったけれど、ただ肉体から魂が離れるだけ、それだけのようにも思えるくらい変わらない身体に見えました。そう考えたら人が生きていたことってなんだろう。少し真ん中が凹み黒くなった瞼と線香の匂い。それから肌寒いくらいにかかっているクーラーの温度が、生きているときとの違い。

翌日、白く煮詰まった湿気の中ぱらつく小雨。小さな棺に入り、黒い車に運ばれていく祖父は、死後3日が経過してついに少しだけ骨に、いつか見た即身仏に(これは少し畏れ多すぎるかもしれない)近い姿に変わっていました。

花に埋もれ、おばあちゃんから横取りした(と祖母が語っていた)オリンピックのピンバッチを胸につけ、白い車で火葬場へと向かい(この時は白いのかと感心した。仏様になったからですか?)骨壷いっぱいの白の塊になって私たちの元へ帰ってきた祖父。ついに本当に肉体も失って、何もかも終わって、でもどこにでもいるのかもしれないと思ったのです。

煤けた骨を見た時、あんなに身体を動かすことに抵抗があったようには思えないほど、太くてしっかりとした芯が彼の中にあったことが、似つかわしくないような、納得できないような、でもなんとなく感心して、見直したような。(ならもっと動いて、食べて、生きて欲しかった)

死は私に何を与えたのでしょうか。

祖父に触れ、もう彼じゃないその身体を実感した時、「なにすんだ」とも「どうしたんだ」とも言わない祖父がいて、そうか、死ぬってこういうことなんだと、自分がなにか想っても、相手からは何も返ってこないんだ。それってすごく寂しいことだと感じました。話す機会も最近はもうあんまりなくなって、実際元気なときから沢山コミュニケーションをとるわけでもなくて、好きになれないところもそれなりにある祖父でした。だから今となっては日常にあまり登場しない彼がいなくなったところで、なにかが大きく変わるわけではありません。

そもそも、私が幼いとき旅行に連れて行ってくれたおじいちゃん。学校に遅刻しそうになって車に乗せてくれたおじいちゃん。成人して一緒にお酒を飲んだおじいちゃん。。。そのときどきのおじいちゃんはある意味寝たきりになった時点でもう会うことはできなくて、それを惜しむならそのときに既に悲しさが生まれているはずで、「死」というきっかけが私にとってどうしてこんなに大きな感情をもたらすのかわからなかったけれど、別に私は行動(だけ)がすきだったわけでもなくて、おじいちゃんから向けられている愛情が嬉しかったのだろうし、それを孫として返すのもなんだかんだ嫌いではなくて、とどのつまりおじいちゃんと私の関係を心地よく思っていたのだと思います。私はおじいちゃんのことがすきってことなんだな。

だから一方的に思っているだけの関係で、相手からもう二度となにも返ってこないことを実感した時、死ぬってどうしようもなくて寂しいものだとようやく実感したのです。

でもまた私は今日を、明日を生きます。

火葬場に全く知らない誰かの遺影がうちの祖父のと同じように並んでいるのを見て、死は日常の出来事として起こっているんだとその時だけは人ごとのように思いました。

長袖の喪服を着てちょうどよい気温の中で、謎の鉄製芸術品が並ぶ窓の外を妹と2人「不思議だね」「そうだね」と何回か繰り返して、バスに乗り込み、初めて親族として参加したお葬式は終わり。

家に帰ってやっぱりおじいちゃんの話をしたり、全く関係ないことを話したり、お題を出して絵を描いて誰が一番似ているかクイズをやってゲラゲラ笑ったりしました。おじいちゃんが死んでいても、それでも楽しいことは楽しいです。

おじいちゃんの死は特別だけれど、それは日常に少しずつ慣らしていきます。ただただ怖いものではなく、私とおじいちゃんの関係があった証拠だから寂しいこともそう思えば、少しだけ嬉しいような。

そしていつかは私もは死に、燃やせば白い骨になる。
今日も明日も人は死ぬ。

次の特別な人の死が、ずっと先であることを祈って、今日をもう終わります。

おやすみーじいじ。

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