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僕は王子様


札幌



2月19日僕は飛行機で札幌に向かった。
新千歳空港には国内外を問わず大量の観光客でごった返していた。彼ら全てがこれからの数日間が必ず美しいものになると信じきっていた。北海道という観光地に寄せる期待に目を輝かせていた。これは、僕が札幌に戻るとき必ず思うことだが、新千歳に向かう機内の中、札幌に向かう列車の中、どの場面を切り取ってみても僕の顔が最も陰鬱なのだろうなと考えたりする。それくらい陰鬱なのだ。

春先の成田空港は纏わりつくような温暖さがあったが、札幌の空気は違っていた。冬場に札幌を訪れたことのある人ならきっとわかると思うが、あの北海道という北の大地は僕らのよく知る空気とは少し異なる空気に満ちている。

「寒い」と一口にっても様々な種類がある。これは北海道で大学生活を送るうえで切に体感し、学んだ理だった。また寒さというのは、その場所それぞれに違った形で人々を包む、土地特有の個性であることを肌で学んだ。

北海道の春の寒さというのは、例えるならば、まだ未明の町に広がる、肌に張りつめるような冷涼さがある。それでいて、関東の皮膚を切り裂くような乾燥した冷気とは異なる、水気を含み包む間の抜けた所のない毅然とした寒さがある。
駅のプラットフォームに降り立つと、日本アルプスの高原の真ん中に一人取り残されたかのように、孤独であることの清々しさと無慈悲さが肌を伝播する。

そして、それは再現性をもった空気である。毎度その地に降り立つたび僕はその空気を浴びることとなり、今北海道に立っているのだという自身の所在を再確認することとなる。

そして否応なく、その空気を初めて浴びた大学一年生の春のことが思い出される。4年前の自分と同じ座標に立ち、その両者の間に広がる時間の厚みと己の変遷に目を向ける。

その日、僕が再び札幌に訪れたのは休学期間の延長手続きのためであった。学科長との面談が必須という心配事が、数日前から僕に重くのしかかっていたこともあり、憂鬱な気分で札幌に降り立ったのであった。結果的にその憂鬱や心配事は杞憂に終わるのだが、その話に関しては部ログ「狭すぎて袖も触れ合うLCC」にて述べているので参照してほしい。


王子との出会い

こうして、「憂鬱」というお馴染みのアクセサリーをぶら下げて、僕はまだ雪の残る札幌の街に立ち入った。面談の日程までまだ時間があるので大学の正門近くの古本屋に入ることにした。古本屋というのは学生街の知的財産といえる。北海道大学の学生街として発展してきた歴史を持つ札幌において、学生や教員、すべての学徒の知識の源泉であり、学びの歴史の集積地である。古本屋は、学生街という枠組みを飛び越え、札幌の街の礎といって差し支えないだろう。

僕がその歴史ある古本屋で購入した本はかの世界的名著、サン・テグジュペリの『星の王子様』だった。僕はその本を250円で購入した。

『星の王子様』は世界中の人間に愛される名著である。著名人のおすすめ図書や「人生で絶対に読みたい本10冊」といったリストに度々ランクインする。この著書が世界中から愛されるのは、その読みやすい分量に平易な文体で構成されており、それでいて全人類に共通する「たいせつなもの」という普遍的な問いを読者へと鮮烈に訴えかける本であるからであろう。

僕は『星の王子様』という本を幼少から知ってはいたものの手に取って読んだことはなかった。当初、買う予定はなかったのだか、店を後にする直前で、何がこの本を名著たらしめるのか、その一点を知らないままこの先の人生を過ごすのに強烈な違和感を覚えた。後ろ髪をひかれる思いに負け、古本屋の自動ドアの面前で踵を返した。

古本屋を後にし、札幌の地下歩道で『星の王子様』を読み進めるうちに、ふつふつと疑問がわいてくるのであった。これだけの文章的な価値がある本が250円という圧倒的な安価で消費できてよいものだろうか。数時間ボウリングやカラオケに興じるだけで数千円が徴収される現代社会において、250円という価格は世界的名著を支えるにはあまりに軽い。この本の人生に生じさせる波紋を加味すればなおのことである。

確かに、この価格設定は古本だからなせる業である。実際に僕の買った本を新品で買おうと思うと、476円である。これでも十分に安すぎるといえるが、この差額の226円というのは本の劣化による物質的価値の減少幅だ。新品と中古で書かれている内容が違わない以上、その本の情報としての価値の最高額は250円ということになる。

本が言葉を明文化し流布するものである以上、この情報の価値の暴落というのは避けられない事態であろう。本の値段をその文章がどれだけ人の心を打ったか、といった抽象的で定量不可能なパラメーターで設定することはできない。言葉が受け手によってとらえ方や響き方の違う相対性をもつがゆえに、情報はその希少性や新奇性ではからざるを得ない。

広く人々に受け入れられ浸透した本は普遍的な価値のあるといえる作品といえる。しかし逆説的に、その希少性の低さゆえに金銭的価値は下落してしまうのは名著の宿命といえるだろう。僕が作者であれば、古本屋に安価で並ぶ自著にやるせない気持ちになるだろう。ただその言葉一つ一つを自身の感性でとらえることで、人生に極めて重要かつ自身に固有の価値を生み出してくれる情報を安価で手に入れられるというのは、消費者、人生の探求者としてはまたとない好都合といえる。

地下歩道を往復しながら、僕は本の情報的価値を適切に金銭的価値に適応させるにはどうしたら良いか考えていた。例えば、『星の王子様』が言葉になる前のサン・テグジュペリの考えを、まるで自分が生み出したかのようにそのまま受け取ることが出来たなら、それには計り知れない価値がつくのだろうか。それとも、ただの書籍の0次情報として安易に巷に普及し、結局安価で取引されるのだろうか。

ただ、そんなことを考えているうちに僕にとって金銭の問題は最早どうでもよくなり、誰かの頭の中の考えが言葉になる以前に受け取ることが出来る素晴らしさを妄想し、胸を躍らせていた。言葉の干渉を受けずに観念を理解できる。これはコミュニケーションのより完全な相互理解に留まらず、各人の言葉に対する感性、言い換えれば観念と言葉の関数までも受け取れる素晴らしき世界なのだ。

文章量の少なさが幸いし、買った当日のうちに読破できたことは僕にとって良い影響をもたらした。読書が日を跨がなかったことにより、その物語が2月19日を象徴する物語として機能したからだ。一日のうちに本の中の物語と、現実の物語の両方が完結する、この点に大きな意味があった。そして、偶然にも現実の登場人物が「星の王子様」のキツネと同じ言葉を口にしたことで、両者のリンクは分かち難いものとして僕の記憶に刻まれることとなった。

Kとの再会

彼は頭のさえる好青年だった。身長は180を超え、いつも黒いズボンに黒いシャツをしまい黒いベルトを着けていた。豊富な植物に対する知識と優れた洞察力と思考力を兼ね備え、その天才性を学内で遺憾なく発揮していた。彼は衝動と活力に突き動かされ、北海道中を旅し幅広く交流関係を広げていたので、彼の手帳は常に予定でいっぱいだった。烈火のごとく走り回り僕らが感嘆しているすきに、すっと手からすり抜けるロケット花火のように、またどこかへと行ってしまう。

彼はその外交的な性質に反して、傷つきやすく影のある心の持ち主でもあった。(この二つは意外にも矛盾なく同居できるものであるが)彼のガールフレンドとの交際関係が座礁しかかったときは、彼自身も悩みの渦にのまれ、鬱に悩まされ先が見えなくなり酒やタバコに溺れかかっていた。彼の鋭く人の奥底を見透かすような強い眼差しは、同時にその彼の深淵の闇を湛えてもいた。強い光が濃い影を生み出すように、すべての人格は明暗という大きく二つの側面を持つのかもしれない。糸の両端を同じ力で引っ張りあい釣り合いを取るように、光と影が均衡を保って内在している。その均衡が崩れた途端、人格の良からぬ崩壊が起きてしまうのだろうか。少なくとも彼の場合はその均衡は頻繁に乱れ光にも影にも堕ちることがあったように思う。そして彼のように両端を引く張力が強ければ強いほど、ある日プツンと切れてしまうような心の脆さも抱える運命にあるだろう。

彼、ここでは「K」としようか。僕はKと久しぶりにあい、彼の研究室の前で数分話すことになった。Kは背筋を伸ばし胸を張って立ちながらも、どこか見えない荷物を背中に背負っているような疲弊の色を見せながら立ちすくんでいた。僕のことを心配してくれていたKに休学の経緯を話すなかでKは語った。

「自分が何を大切にして生きていくのか、そういったことはまとまった時間をとって立ち止まって考えてみなければわからない。そういうことがある」

K

彼がそういった時僕はハッとしてつい数時間前に読んだ本のセリフを思い出す。

じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。

星の王子様よりキツネの言葉

このフレーズは恐らく作中で最も印象的なセリフとして、多くの耳に入り心に響いた名言の一つなのではないかと思う。Kの言葉も、僕が休学を決断し多くの人と会話する中で僕を励ましての意味をこめて投げかけてくれた言葉であった。

多くの人に共有されたありふれた言説である、という意味ではこの二つの言葉は何となく生きていくうえで僕が理解し実感してきた既知の考えであると思う。ただ、先にも述べた通り現実と小説という垣根を超えた言葉のリンクが同じ日に起きたことが象徴的な意味を持った。この偶然がKとキツネがそれぞれ語った言葉の含意をより強烈に印象付け、僕により深い再考を促した。2月19日は語るに足る一日になった。

キツネの主張

「たいせつなことは目に見えない」という言葉はどういう意味なのだろうか。恐らくそれは「たいせつなこと」は自分の体の外の世界に見える形で、または触れる現実のものとしてあるのではなく、必ず自分自身の中にあるという意味ではないだろうか。詳しくは本書を読んでほしいのだが、「星の王子様」が自身の大切なものが母星に置いてきたバラだったと気づくシーンでこのセリフは発された。有名なセリフのあとに「キツネ」はこう続ける。

きみのバラをかけがえのないものにしたのは、君がバラに費やしてきた時間なんだ

キツネ

つまり、本当に「たいせつなもの」はバラそのものではなく、星の王子様がバラに対して愛情を注いできたという事実であり、彼がバラに対して注いできた愛そのものである。そうキツネは主張しているのだ。これは現代人に広く普及した価値観に照らし合わせると少し珍しい考え方といえるだろう。例えば家族や趣味、自身のライフスタイルなど、自分の愛するものや大切にしていることの「存在」こそ守り抜くべきものであると考える人が多いのではないだろうか。反対に、キツネの主張は自分の愛するものや大切なことが、そうである理由、ひいてはそう考える感性や感覚こそが「たいせつなもの」であるとしている。

一般の価値観が即物的であるならば、キツネの考え方は極めて観念的で内省的、そして何よりも主観的であるといえる。自身の価値観を取り扱う以上、個人の主観で語られることは当然であるのだが、キツネの場合の主観的とは価値における主観性、認識論的なもののとらえ方といえる。

簡単に説明するならば、君が認識していない事象は存在が証明できないので君の感覚を通して認識されたものが世界のすべてという理屈である。世界は観測者の認識を前提にして成立する。

その理屈で行くと、私という視点から見ると世界は私の認識の「窓」を通して覗かれる映像であり、この世界は確かに存在するものは「窓」だけという孤独な世界になる。窓の形が歪めば世界そのものも歪んで見える。窓ガラスの色が変われば世界の色も変わる。物事の価値も性質も全ては「窓」次第、私たちの認識次第である。

有名な理論であるから、君たちも知るところであるだろうが、それを実際に活用して生きている人は僕の知る限り極めて少ないように思う

例えば、君にとっても素敵な恋人がいるとしよう。君はその恋人が君に優しさを施してくれるところが大好きであったとしようか。ただ、長い間一緒にいるとその優しさに慣れて、施されて当たり前になってしまうかもしれない。そうすると次第に素敵な恋人の魅力が色あせて感じられるようになるのではないのだろうか。

なぜこの「冷め」現象は起きてしまうのか。恋人が優しくなくなったわけではない、であるならば問題は優しさに慣れてしまった君自身にあるだろう。優しさに慣れたことは、つまり君がその優しさに段々と価値を見出せなくなった、と言い換えられる。原因は君の価値観の減退、美学の摩耗にあったといえよう。キツネの教えに従うならば、君は恋人の優しさではなく「優しさを愛する心」を風化から大事に守り抜くべきだったのだ。

物事に最初から価値などない。美しい景色も愛すべき人間も最初から存在すらしていない。すべては君の価値観がそれらに価値を創造し与えた結果だ。君がそう思うから世界は美しいのだ。君の心の中にある価値観や感性が摩耗していけば、世界もまた色あせ美しさを失っていく。全ての宝は最初から君の中にある。いや、君の中にしかあるはずはないのだ。

大切なものと向き合うということ

キツネの主張はこうだった

大切なものを大切に思う気持ちを大切にしなければならない、それこそが「たいせつなもの」なのだ。

何だか文章にするとわけがわからない。
「大切」を「愛」に置き換えてみようか

愛するものを愛する気持ちを大切にしなければならない、それこそが「たいせつなもの」なのだ。

うむ、こんなところか。

それじゃあ、僕にとっての「たいせつなもの」って何だろう。Kのいった「大切なこと」をキツネ式に敷衍して「たいせつなもの」として解釈するならば、やはりじっくり立ち止まって考えなければ見えてこないものなんだろう。

僕は今熱心に園芸にはまっている最中なのだが、僕が育てている植物はやはり可愛くて全身全霊愛情を注いでいる。であるならば、最も尊重すべき宝とは僕が「植物を愛する心」だ。最近植物の世話をするたびに自然と愛情が湧き出るのを感じる。園芸店で新しい植物の株を買うたびに、自分は「愛」を買っているのだなと実感する。誰かからの「愛」ではなく自分が創造する「愛」を。

Kの言う大切なものを見つけるというのは、僕が植物に対して行った作業を世界中全ての事象に対して行っていくことであるといえよう。それが達成された暁には、僕たちは全てに永久的価値を与えることも、全てから永久に価値を奪こともできる、主観的超人になれるだろう。

星の王子様とのもう一つの繋がり

さて、話は変わるが君たちは「バオバブ」という植物をご存じだろか。主にマダガスカル島やオーストラリアに自生する落葉樹で、大木になることで知られている。現地ではフルーツが食用にされたり、紙幣に刻印されたりなどアフリカを代表する樹木の一つといえよう。落葉した枝や幹が根っこに見えることから上下あべこべな木とも言われたりする。大変長寿なことでも知られており、最高齢で樹齢1800年にも及ぶらしい。数十世紀の間、人類の文明の隆盛を見守り、星とともに佇んできたその姿は、貫禄という言葉では言い表しきれないほどに見るものを圧倒する相貌となる。ただ、その長寿さゆえに世代交代が進みづらく繁殖能力に乏しいのが難点でもあるらしい。

「星の王子様」でのバオバブは、現実世界での神聖なイメージから一転、忌み嫌われる有害植物として描かれる。王子の母星では、バオバブがひっきりなしに地面から生えてきてはグングンと成長し、栄養を奪ってほかの植物を枯らしてしまうらしい。星の王子様は雑草としてのバオバブを抜く作業に追われ、バオバブに対して恨みすら抱いている。贅沢な話である。

贅沢、というのは僕が今すっかりバオバブに対してご執心なのが原因だったりする。以前軽井沢に旅行に行ったとき、偶然にもバオバブの実を買う機会に恵まれた。どうやら中に種も入っているようだった。ぜひ育てたい。発芽の適温になる7月を今か今かと待ちわびている最中なのだ。

母にバオバブの実を見せた時
「まさか、人生でバオバブの実を見る日がこようとは」
と母は言い放った。

確かにその通りである。今まではバオバブなんて、地球の反対側の何だかすごい植物の一つでしかなかった。だが今、こうしてバオバブという生命の一端を目の当たりにすると突然バオバブの全容が現実味を帯びてくる。

1800年という数字、30mという数字。それらが、僕の空想の中に突然現れる。僕はその捉えようのない莫大な規模にただ上を向き口をポカンと開けて佇むことしかできない。僕はバオバブの虜になった。その時、僕の星に一本のバオバブが芽を出した。

もし僕が「地球の王子様」だったらこの世界はバオバブだらけになっていたことだろう。少なくとも、今や僕の心の中の星はバオバブの森に覆われている。バオバブが大切なものとして星に芽生えたその日から。バオバブに水をあげ始めたその日から。

君たちは不思議に思わなかっただろうか。なぜバオバブがマダガスカルとオーストラリアという離れた場所に分布しているのかと。学者はまだ大陸がつながっていて、マダガスカルとオーストラリアが陸続きだったころに広がったのではないかと考えた。しかし、バオバブという種が分化したのはどうやら大陸が袂を分かった後のことらしい。ここである説が浮上する。そう、バオバブは海を渡ったのだ。

バオバブは固い果皮を持つフルーツだ。その果皮が数千キロに及ぶ長い波任せの航海の中で、水分や塩分から種子を守り切ったというのだ。そして、偶然流れ着いた新大陸で芽吹きバオバブの新たなる歴史が幕開けたのだ。そう考えると壮大でロマンにあふれる話だろう。


さて、僕が星中のバオバブから果実を収穫して、すでにこのエッセイの波に乗せて放流してしまったことに、皆はお気づきだろうか。インターネットの海を漂って果実は君の星に流れ着き、もうとっくに芽をのぞかせているんじゃないか?もちろん、その芽を君が育てるか抜いてしまうかは君次第だ。大切なものは人それぞれ違うんだからね。でも一度でいいからバオバブとしっかり向き合ってみることは忘れないでくれたまえ。それはきっと「たいせつなこと」だ



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