「なぜ語学?」を整理する

※スキズ記事じゃないです。


こんにちは。

皆さんは「なぜ英語を学ぶの?」と聞かれたことはありますか?

義務教育を終えても自主的に語学を学んでいる方や、国際系の大学・学部に入った方はよく聞かれる質問ではないでしょうか。

今日は私が聞かれてきた「なぜ?」を2つに分け、それぞれに対する私なりのアンサーを書いていきます。


1、「なんのための語学?」

印象に残っている言葉として、友人に言われたのが

英語をやっている人の多くには目的があるから、僕はその目的が気になる。英語を“何に使いたいのか”を質問する。」

というもの。

勿論、私にも目的はあります。就職のため、外国人と生のコミュニケーションをとるため、海外ドラマをもっと楽しむため……挙げようと思えば、いくらでも目的は見つかるはずです。


「英語はツールだからね。」


これは先生にもその他の人にも、嫌というほど言われてきた言葉です。ツールだから、その先をつくれと。習得を目標にするのでなく、それを「どう使うか」を考えろと。


ただこういった言葉たちを投げられると、私はすこしだけ窮屈に感じます。

単純に「語学が楽しいから」っていう理由も知ってほしいと。発音が、つづりが、テキストを開くわくわく感が、新しいことを覚えて上達していく感覚が、すべてが楽しいんです。


語学っていうのはただその言語を話す学問ではありません。

語学は言わば木の幹で、

語学を学べば枝分かれして様々なことを学びます。


「様々なことって具体的には?」

という方のために、授業で学んだ小話を二つほど紹介します。(大学の韓国語の先生が言語学者で、とっても面白い授業をしてくださいます)

CASE1▶韓国語で「名前は何ですか?」

①이름 뭐에요? (助詞なし)
②이름이 뭐에요? (助詞の이/가)
③이름은 뭐에요? (助詞の은/는)

すべて「名前は何ですか?」で正しいです。違うのは、助詞の有無と種類。

ただ、関心度が違う。

①<②<③の順で関心度が高いんです。

だから、韓国に行って名前を聞かれるとき、①なら社交辞令で聞いているし、③なら本気で私の名前を知りたいのだと分かる。

韓国人が無意識に使うことばに文法的にアプローチした言語心理学です。


では、同じ言語心理学でもう一つ例を。

CASE2▶韓国語で「カバンの中には…」

韓国語で「中」という単語は二つあります。안 と 속 。

この2つの違いは、中にあるものがイメージできるかどうか

ガラス越しの箱の中身を指すなら안だし、脳内などを指すなら속。

有名な韓国映画「私の頭の中の消しゴム」の原題は、「냉머리의 지우개」だそうで。

画像1

これは、頭の中は誰にもイメージできないからですよね。


ではここで、警察の取り調べ室を想像してください。

警察が「カバンの中に何も無いのか?」と問い詰めて、

相手は「カバンの中には何もありません。」と言う。

1. 가방안에 아무것도 없어요.
2. 가방속에 아무것도 없어요.

2だったらカバンを怪しむと言います。

なぜかというと、속を使う=中身が曖昧であるから。潔白なら、안を使う可能性が高いと考えるのだそうです。


どうでしょう?無意識に口にした言葉で、思考が読まれてしまうんですよ。

「ただの語学」とはまた違った面白さを感じませんか?

これに限らず、語学を学ぶと必然的に文化も学びます。日本とは捉え方の違う部分が、言語には色濃くあらわれますから。

語学は次なる目的のためのステップ。でも、それだけじゃない。この面白さが伝わってほしいです。


Twitterでたまたま見つけた、すこし私を救ってくれるツイートも貼っておきます。









2、「不要なのに、なぜ語学?」

「今は翻訳アプリの性能がぐんと上がっているし、将来はもっと上がる。」

「正直、語学なんてできなくてもボディランゲージで最高の友達はつくれる。」

これは、海外経験のある家族から、悪気なく言われた言葉です。

やらなくても生きられるのに、なぜわざわざ語学を選ぶのかと。


こう言われるといつも思うのが、

「共通言語のない人と親友になりたいと思うか?」

という純粋な疑問。

考えてみてください。

ボディランゲージでも意思疎通はできる。でも、それで深い話はできませんよね。

最初は良いかも知れない、「コイツ楽しい奴だな」と思わせるなら言語は不要かもしれない。

でも仲良くなるにつれ、相手を知るために相応の語彙が必要になる。

いつでもどこでも翻訳アプリを使って会話しますか?

常に相手との間にスマートフォンを挟む関係って、はたして心地よいものでしょうか?


まぁ、こんな風に言っている私も、以前までは「下手な英語<翻訳アプリ」だと思っていました。

それを変えてくれたのは、2人の外国人との出会いです。

1人は、留学生として私の大学にやってきたブルネイ人。

共通言語が英語だったのですが、「生協」という単語が分からなくてすぐにスマホで調べようとして。

そしたら彼が、

「検索しないで。キミはきちんと英語ができるから。自分の言葉で説明してみて。」

と。

その励ましを受けてトライしてみたものの、結局「生協」なんてうまく説明できず。きっと2割も伝わっていなかったはずです。

それでも彼は「できたじゃん!」と笑ってくれました。


もう1人は台湾人。

大学の課題で現地調査が必要で、私は日本語も中国語もペラペラな人に付き添ってもらいながら現地の学生にアンケートをとっていました。

未熟な中国語で「ニーハオ」、と話しかけ、調査中の日本人であることを伝えました。

詳しいアンケート内容を付き添いの方に説明してもらおうとしたとき、

「自分の言葉で話してみて。間違えてもいいから。」

なんとその台湾人は日本語で、そう声をかけてくれたのです。彼は日本語を数年学んでいたそうで、なんとも縁を感じました。

またまた拙いにもほどがある中国語でアンケート内容を説明。彼は急かすことなく話を聞いてくれて、アンケートも快諾してくれました。


「自分の言葉で伝えること」が、相手の眼を見て話すことがいかに大切か。それをこの2つの出会いから学びました。


もちろん私も毎日翻訳アプリのPapagoさんにお世話になっています…が。そこに「自分で理解したい」という気持ちがあるかないかでは天と地ほどの差があると思っています。

自論ですが、語学は愛です。


上記noteの終わりにも書きましたが、

語学を学ぶということは相手を理解したいという前向きな姿勢を顕著に示します。

例え自動翻訳の性能がどれだけ上がったとしても、私は語学を続けます。

それは、目の前にいる人とより真剣に向き合うためです。


読んでくださった方、ありがとうございました。




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