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「文章=人生」は、本当だった。

自分のできないところに
「目がいく人」と「いかない人」がいる。

どちらかと言うと、わたしは「目がいかない派」としてゆらゆらと、
ここまで生きてきました。

でも、そうやって、
見て見ぬふりをしてきた「できないこと」に正面から向き合ってみたら、
強烈に「自分が嫌になる瞬間」が襲ってきたのです。


できないのは、馬鹿だから?

何ができないって、
自分の思いを文章にのせて届けること。

noteの中では、みんながスイスイできちゃってるようなこと。


張り切って書くと、強すぎて相手を責め立てるようだし
頑張らないと、何が何やら伝わらない文になる、と自分で思う。


だれかに文章を称賛されたいわけでも
有名になりたいわけでもない。
本当は、ひっそりと生きていたい。

ただ、自分の経験やスキルが、
困っている人や悩んでいる人、未来を作る子どもたちに届けられたら
少しは役にたてることがあると、伝えたいだけだ。


なのに、加減がわからない。
そのために文章講座で学んでいるのに、
これって、わたしがただの「馬鹿」ってこと?


馬鹿だから
練習が足りないから
文章のテクニックが足りないから、
うまく書けないと思っていた。

その「瞬間」までは。

でも、違った。


問題は、そこじゃない。


問題がどこなのか
その瞬間が来て、突如わかった。

文章を見てもらっている課題文が返却されて
力強く書き加えられた、赤い文字を読んだ。

スッと血の気が引いて、瞬時に理解してしまった。


テクニックなんかじゃない。
わたしに欠けているのは

「気持ち」だ。


謙虚な気持ち。
相手が受け取りやすくしてあげようという気持ち。
寄り添う気持ち。
わかりやすく伝えようという気持ち。
楽しく読んでもらおうという気持ち。

「自分」ではなく「相手」に向く気持ちだ。


赤い文字が映るパソコンのモニターを見つめたまま
目からボロボロと涙がこぼれ落ちていた。


「文章は、人生そのもの」って本当だった。


気持ちを置き去りにして
形を整え、情報をわかりやすくしたところで
伝わらないのは、当たり前だった。

突然、あんまりな自分を見つけてしまった。

ここ一か月noteが書けなかったのは、そんな理由。

衝撃の瞬間から数日後、
親しい友人にじっくりと話を聞いてもらいながら
頭を整理してみた。


わたしに、全く気持ちがないわけでも、なかった。
ただ、強く思っていることを文章化するときに
しっかりと客観視するといいのだなと、方向が見えてきた。


ここからがテクニックの話だ。


わたしが客観視するためにいくつか試したことを
次回書いてみようと思う。


つくづく自分のふがいなさに
浸った一か月だった。
この日々は、たぶん一生忘れない。

文章のことだけじゃなく、生きていく上での気づきだったから。

謙虚でいること。寄り添うこと。相手の立場になること。
まるで小学生の道徳の時間みたいに、自分に言い聞かせた。


わたしは、
アンデルセン童話「雪の女王」のカイ少年みたいに
軽く生まれ変わったんじゃないかなと思う。

見た目は変わらない。。
文章もたいしてかわらないかもしれない。
でも、中味は生まれ変わってる。

「文章は、人生そのもの」って本当だった。
いま、力強い赤い文字に、すっごく感謝している。


生まれ変わったところで、まだまだだけど、
じっくりと絵本の可能性について書いてます。


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