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玄さんと一緒に取り組んだ読書感想文

みなさん、おはようございます。今日は日本は全国的に曇り空で涼しく過ごしやすい天候のようですが、いかがお過ごしでしょうか。

僕と玄は今朝も富士山登山の身体作りのためのウォーキングをしてきました。玄は小六ですが、まだ、僕と一緒に歩くことなどは苦にならないらしく、手を繋いだりして、変顔合戦などをしながら、歩たりしています。いつか親離れしていく未来の寂しさを想起しながら、今をかけがえのないものとして味わう心で。メメントモリですね。

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さて、昨日と一昨日は玄と二人で読書感想文に取り組んでおりました。読書感想文というと自由研究とならんで、世間一般では、夏休みの強敵ともいえる宿題。率先して読書感想文書きて〜、なんていう子どもは少ないんじゃないかと思います。

なぜ強敵なのかというと、日本の国語教育は読解が主で、自己の考えや感情を表現する仕方を教えるようにはなっていないからだと考えています。

指導要領の改定もあったので、少しずつ変わってきているのかとも思いますが、僕が最近の20代とか10代と話していても、何か世代によって感情表現が豊かだな、と感じたことはありません。いわんや同世代おやで、TwitterはじめSNSを見ていても、日本全体の感情の劣化については、かなり酷い状況にあると感じます。

感情だけが重要ということではないのですが、あらすじや本の内容の要約に加えて、自分の気持ちを表すことが、感想文にとっては大事。そして、気持ちを表すには、自分の生活と地続きの問題意識が必要になってくると思います。何か日々を真剣に生きることで感じるジレンマ、そこにまつわる嬉しさや悲しさ、寂しさなどが描かれてこそ、人に伝わる感想文になるのではないでしょうか。

今回、僕は生活と読書感想文をどのように玄さんの中でリンクさせられるかをテーマに玄さんと読書感想文に取り組んでみました。その経緯を記していこうと思います。長文ですが、夏休みの読書感想文にどう向き合えばよいか分からずにいる方などの参考になればと思います。

まず、ひとつ良かった点としては、この夏休みは玄と一緒に、毎日朝起きウォーキングをしていることが挙げられます。8月下旬に富士山に登るので、身体の準備として毎日3〜5kmくらいを一緒にテクテク歩いているのですが、歩きながら色々と話をすることができたので、十分に読書感想文について意見を交換することができました。

歩くことと考えることの相性はとてもよくて、プラトンやニーチェなどは歩きながら哲学することを具体的に結びつけていたそうです。また、カントはいつも厳格に同じ時間に同じ場所を散歩しながら思索に耽っていたので、当時の街の人たちはカントが歩いてくるのをみて、時計を合わせた、という逸話があるそうです。これはなんかドイツっぽいエピソードで僕は好きです。

僕らは毎朝、歩きながら、読書感想文をどうしようか、考えていました。

初めに大切にしたのはしっくりくる本をしっかり選ぶことです。読書感想文は本を選ぶところから始まっていて、問題意識を明確に共有できる本がしっかり選ばれたのなら、1200字程度の読書感想文ならば8割がた完成してしまっていると言ってもよいかもしれません。

世の中や、自分、子どもが抱えているある種のジレンマについて、子どもでも分かるように物語の力でキチンと筋道を提示てくれる本を選ぶことが大事です。そして、一緒に読んでそういう問題意識を共有することができれば、6年生くらいになっていれば、それについて大人とはなしあうことで、結構深いところに辿り着けるはずです。

あとは、やっぱり子どもと一緒にやるならば、子どもが選んだ本は親も一度は読んだ方がいいと思います。そうじゃないと問題意識を共有できないからです。親がキチンと向き合ってくれたら、子どももそれに応えようと思って頑張るんじゃないかとも思います。


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さて、歩きながら相談する中で、我々の間では、いろんな本が候補に上がり、最終的にはミヒャエルエンデの『モモ』が選ばれました。

この選出にはすこし我が家なりの文脈がありました。まず、この本は玄が3年生の時に、僕が全編を通して読み聞かせをしてあげたことがあって、玄がそれを覚えていたんです。その後も何回か読み返したことがあり、好きな本としていい印象をもっていたことが第一。それから、僕も何回も読んだことがある話だったことと、あとはミナコさんも中学校の時に『モモ』で読書感想文を書いたことがあった、という事実です。いろんな歯車が噛み合っているので、玄が、それならその本で書いてみようかな、という話になったわけです。

そういう意味でミナコさんの中学時代というと四半世紀以上前、玄が3年生というと3年前ですから、その辺りからの長い伏線回収とも言えるわけで、そういう縁というのはきっかけとしては大事だと思いました。

ちなみに、読み聞かせの話はテキストにいかせましたが、ミナコさんが読書感想文に書いた、という話は最終稿には残せませんでした。宿題としては1200字以内、という縛りがあり、それが結構短くていくつか、下書きまでは書いたけど、最終稿には残らなかったエピソードもありました。

あとはやっぱり『モモ』というのは寓話として非常によくできていて、現代社会の分かりやすいメタファーになっている、ということが言えます。もともと読書感想文向きの話なんですよ。

『モモ』というのはざっくりいうと、時間と労働とお金の関係を語っている話な訳ですが、子どもであればこれは時間と勉強と遊びの関係に移し替えることができます。これを結びつけるのは僕と玄にとってはかなりアクチュアルな問題意識です。

どういうことか。

僕についていうと、最近は仕事が馬鹿みたいに忙しくて、全く玄と一緒の時間を作れないでいます。この辺りは僕のFacebookをご覧になっている皆さんは実感がないかもしれません。それは僕が玄と楽しく過ごしているところだけをアップしているからなのですが、実際にはもっと彼のそばにいてあげたら、勉強なんかはもう少し見てあげられたかもしれない、2年間頑張った塾も辞めなくてよかったかもしれない、という気持ちがあります。そこには時間どろぼうの影が見え隠れしているのかも。

ちなみに僕の勤めているのはガバナンスが非常に悪い、一般的にみて、最悪な中小企業です。そこが、どのように最悪かというと、現代日本のそこかしこで起きている、仕事ばかりが増えて賃金や人員といった必要な兵站の補充/補強が全くなされないインパールもしくはコロナ禍のオリパラ2020的な状況に改善策をなんら打ち出すことができていないという点です。

前向きな構造改革を打ち出せないため、組織の持続可能性がどんどん損なわれています。そのスピード感たるや凄まじいものがあって、足元から組織の土台が崩れていくのが音を立てて見えているような状況です。

僕は中途採用で外様なため外人部隊的なメンタリティで、踏みとどまっておりますが、社内の不和も相当臨界点に達してきており、ホントにキツイ現場です。

一方、玄くんについては、この夏休みを前にして、彼は2年半通った学習塾であるとこほの日能研を辞めることになりました。これは、ミナコさんと相談して、僕が決めました。

理由は幾つかあるのですが(そのうちの一つは僕が忙しすぎて塾の家庭学習をしっかりフォローしてあげることができなかった、というもの)、やはり、日能研に行っていると、本当に勉強ばかりしかできなくなっちゃうんです。宿題も大量で、土日も授業とテスト、夏休みも毎日講習、みたいなことが平気でまかり通るわけです。

もちろん、日能研のテキストはよくできていて、学ぶ楽しみにコミットできたり、テストで上位に食い込むことに主体的になれたりする子ならいいんですが、あいにく玄はそういうタイプではない。


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学ぶ楽しさを知る前に、積み上げられた課題に打ちのめされてしまって、何となくこなすだけ、それも、やっとこさこなしても、身に付く前に次の課題に移動しちゃって、とにかく借金の利子に追い立てられるだけみたいになっちゃてるな〜、と見てて思ったんです。スピード感が玄と全く合わなくて。

それに、日能研に行っている間は、本を読んだりテレビや映画を見たり、友達や親と過ごす時間が極端に少なくなっちゃて、それでいいのか、親として思ったわけです。このままでは勉強の奴隷になってしまう。もしくは反復勉強マシーンか。マシーンといっても、性能がそれほどいいわけでもなく、エラーばかり起こしちゃう感じだし。

塾に行かせていれば、その間は親も自分のことができるので、楽かもしれませんが、塾に行っても、先生から何か言われたことを覚えるでもなく、ボーッと聞いて2時間とかをやり過ごす玄のことを想像したら、それはちょっとあまりにも非人間的だと思ったわけです。

それでも、玄としては2年半通った塾を辞めるというのは、何か大きいことのように感じていたみたいです。中学受験も、まぁ、半ば諦めることになるだろうし、強烈な挫折的体験とまではいかないが、自分は勉強はできないんだ、と突きつけられたような気持ちになっていたんではないかと思います。

結局、塾をやめて、テレビとか映画とか本とかにいっぱい触れられるようになったので、楽しくはしているのですが、楽しいだけでいいのか、みたいな気持ちはあるみたいなんですよね。

人生は長いし、小学校最後の夏休みにコロナがぶつかってきていて、思い出も作りにくい。でも、だからといって、この少年期の大切な時期を漢字と数式の詰め込みに割いてしまっていいわきゃないですよね。まだ『水曜どうでしょう』とかを繰り返しみている方がマシなはず。でも、そういうことの良さって、なかなか言語化できないものですよね。

親としては、そこになんらかの検討材料を投げてみたかった、という気持ちがあります。そこで、『モモ』を、一緒に読解してみて、そこを切り口に暇や退屈を哲学してみよう(國分功一郎)という気持ちが高まったのでありました。

時間と仕事とお金のバランスで苦しんでいる父の姿を、塾と勉強と遊びのバランスで苦しんだ玄が、お互いの状況を比較して、今をどう捉えているか考え、『モモ』を通して相対化していくのが、この読書感想文を通して僕が玄とやりたかったことなのです。

そんなことを僕は考えながら、玄に塾をやめたことだとか、塾をずっと続けていたらどうなっていただろうかとか、父は今、生活を楽しんでいるのだろうか、とか、そういうことを問いかけて、一緒に歩いてみたのです。

もともと、仲が良い親子ではあったと思いますが、こういう話をして、よりお互いを理解し合えたのではないかな、と思っています。僕が父として玄のことを理解して愛している、ということを伝えたり、玄が捉えていた父の姿が、割とまんまの父の姿だったことが、改めて理解されたような実感があります。

お互いの気持ちが結構、分かり合えるてるよね、というところで固い握手! みたいな感じになって、雨も降ってないのに地面が固まる感じでした。同じ物語を共有する素晴らしさってこういうところにあるのかもしれません。

つまり、この1200字の読書感想文にはそのような下地があっだということなのです。

読書感想文では、物語のあらすじを書いて、どこに感動したとか心に残ったか、というのをメイン据えて書いていくわけですが、そこからもう一歩踏み込んで、その物語がどのくらい、僕らの実生活をメタフィジカルに、表しているかを実感して、対比してほしかった。

そして、その目標はある程度、成功したように思えます。彼が物語のイデアとメタファーの関係に気づいてくれたのが大きかった。なぜ物語が語られるのか、の本質にコミットするきっかけになってほしいと思います。

そうすることで、自分が生まれる前に書かれた作品からでも、現代の我々が抱えているのと同じジレンマを感じることができて、それができると、父も玄も世代は異なっても、程度の差こそあれ、同じ悩みを共有することができる、と実感できると思うわけです。

それが物語の力なんだよ、と伝えたかったというのもあります。

『モモ』というのはそういう意味で非常に普遍的なジレンマを分かりやすく比喩的に表しているので、世界的な名著と言われるし、読書感想文のモチーフに選ばれることが多いんだろうな。やはり、素晴らしい物語でした。

そして、そこまで分かれば、次は当然エンデでいうと『はてしない物語』が表れてきます。物語のイデアとメタファーの話も文脈として続いていくわけです。

かなり長くなってしまいました。1200字以内の読書感想文の文脈を語るのにここでは5300字程度を費やしたわけですが、なんとなく僕の言いたいことを書き連ねてみました。もしも、全て読んでくれた酔狂な方がおりましたら、心からお礼を申し上げます。

僕の生活は相変わらず問題が山積みですが、ここが踏ん張りどきかな、と思って頑張ろうと思っています。みなさま、これからもよろしく!

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