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ニシンと思うな、米と思え @小樽市鰊御殿
北海道小樽市、祝津地区はかつて千石場所(=ニシンがたくさん獲れる、千石も獲れる場所という意味)として知られた。
8月下旬に海を見下ろす丘に立つ「小樽市鰊御殿」を訪ねた。御殿の正体は「番屋」と称される宿泊施設で、江戸から昭和初期にかけて北海道沿岸部で盛んだったニシン漁の網元とヤン衆(東北からの出稼ぎ漁師)が寝泊まりした場所だ。
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この番屋はもともと小樽市から約80キロ離れた泊村の網元、田中福松氏が明治30年(1887年)に建てたもので、昭和33年(1958年)にこの地に移築された。丘を降りたところにある「にしん街道」沿いにも何軒か祝津の番屋があるが、ここが最も大きく、当時の様子を残す番屋として知られており、生活用品や漁で使った道具などが展示されている。
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中に入ると頭上から男性が歌う「エンヤサーのドッコイショ」という節回しと木で拍子をとる音、そして合いの手が聞こえてきた。それは北島のサブちゃんとかの洗練された歌声ではなくって、素朴で、海の波音が聞こえてきそうな声。
「ソーラン節」はニシンを大型船から網で小型船に移して陸揚げする際の作業歌だった。急いて大事な網を破ってはもうけをフイにしかねない、かといってのんびりとやっていたのでは時化に襲われるかもしれないー。つまりヤサエンヤサーのドッコイショは皆で力を合わせ、魚をより多くとるための見えないけれど大切な仕事道具みたいなもの。
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御殿という名にふさわしく、立派な木材が梁や柱にふんだんに使われた番屋では、網元とその家族、親方にヤン衆と主従が寝起きを共にしていた。けれどその居住空間は完全に分かれていて、畳の敷かれた居室は網元と親方、片やヤン衆には板間が食事や団らんの場として与えられていた。彼らは支給されたむしろ3枚を敷いて台所や板の間、そして上方にある棚のような空間で寝ていた。最盛時には120人ほどのヤン衆がこの番屋に寝泊まりしていたのだそう。
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北海道で獲れたニシンの量は最も多いとき(ピークは1897年)で年間約100万トン。約3か月に及ぶ漁で今のお金に換算して数十億円稼いだという。これぞまさに一攫千金。
2階にあがるとどんでん返しの仕掛けをもつ隠れ部屋があった。その用途については諸説ある。(写真参照)けれど、個人的には「ニシン漁の終漁期には現金取引による巨額の販売代金をうけとるため、それを狙う強盗から防備するための現金保管場所とした」説に軍配を上げたい。なんてったって数十億円単位のお金が動いたのだから、お金をめぐる血なまぐさい事件は絶えなかったに違いない・・・。
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当時のニシン漁の隆盛ぶりをもっと実感したければ、近くにある小樽貴賓館を訪れてほしい。ここは小樽三大網元の一つ、青山家の別荘で、全国各地から銘木を取り寄せて造らせただけでなく、各部屋には書や絵画の大家の手による作品が飾ってあって、贅の限りを尽くしている。もう一つ付け加えておくと女主人の部屋には専用のお手洗い(しかも便器は有田焼!)と当時には考えられないようなモダンさも備えている。
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そんなにもうかるなんて、昔の人たちはどんだけニシンを食べたんだよ⁉と知りたくなるかもしれない。けれど食用だけだったら御殿も別荘も到底建たなかった。生食や加工して身欠きニシンとなったのは全体のほんの15%。残る85%は別の目的として使われたのだ。
その答えを探るためのヒントはおせち料理にある。ゴマメ(小さなカタクチイワシの乾物)をフライパンで炒って醤油とみりんで甘辛く煮つけた一品に覚えはないだろうか。その名は田作り。これはイワシが田畑の貴重な肥料になっていたことに由来し、豊作の願いが込められている。そしてイワシのみならずニシンもまた魚肥にされ、「金肥(=お金を払って購入する肥料)」として北前船で京都や大阪に運ばれ、コメや綿花、養蚕に必要な桑の栽培などに使われたのだった。
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幼い時に田作りの話を聞いて、魚がポンポンそのまんま田んぼや畑に放り込まれる図を想像していたが、もちろんそのまんまではない。それだと魚は腐るだけ。そもそも長期間の運搬には耐えられなかった。なのでニシン粕の作り方をザクっと説明すると、ニシンを大釜で一時間半ほど煮る。それをてこの原理を用いてぎゅっと上から押して、油と粕とに分ける。粕は干された後細かく砕き、俵に巻いて出荷されるといった具合。ピーク時には1年間で約330万俵(約30万トン)のニシン粕が出荷されたという。
そもそも野に育つ植物は肥料を必要としない。栄養分ならば鉱物や、生物の死骸や枯葉といった有機物が分解される自然のサイクルで十分足りる。人間が作物を育てるようになった過程で、より多くとかより大きな収穫物を望んだ結果、肥料が必要とされるようになった。
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石焼きニシンを食べているとなんでこんなおいしいものを肥料なんかに、もったいないと思うけれども、ほんの100年ほど前までは肥料といえばし尿をはじめ有機物が当たり前。ニシンだってバカスカいくらでも獲れたのだから活用しようとなったのは当然の理。かつイワシよりも作物の出来がよくなるという評価だったらしい。
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2階でボンヤリしていると窓越しに船がゆっくりと海を進んでいくのが見えた。ニシン漁盛んな頃は春先にニシンの群れが押し寄せる「群来(くき)」で海が真っ白になったそう。これは雌が沿岸で産卵し、雄が放つ大量の精子によってみられる現象。長年にわたる乱獲で回遊領域と成長サイクルが阻害され(たという見方が有力)、徐々に漁獲高が落ち、ニシンは1958年ごろに北海道西岸から姿を消し、群来も見られなくなった。
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そして海のはるか向こうのドイツでフリッツ・ハーバーが空気中の窒素を固定してアンモニアの合成に成功するのが1908年のこと。さらにカール・ボッシュが工業的にアンモニア合成に成功し、日本も世界も有機肥料から化学肥料の時代に本格的に突入することになるのだが、それはまた別のお話。
稚魚の放流や保護策が功を奏して、最近また群来がみられるようになったといううれしいニュースを目にした。ただどれだけ資源が回復したってもはや獲れるだけ獲ってやれというのは過去の遺物。そして一攫千金を狙って漁に出た男衆の夢だけが時代を超えて、歌声とともに語り継がれていく。
ヤーレン ソーラン ソーラン
ソーラン ソーラン ソーラン
鰊来たかと 鴎に問えば
わたしゃ立つ鳥 エー波に聞け チョイ
ヤサエー エンヤサノ ドッコイショ
ハー ドッコイショ ドッコイショ ソーラン ソーラン
ドッコイショ ドッコイショ ソーラン ソーラン
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