見出し画像

日本とドイツの架け橋、シーボルトのゆかりの地を巡る(ヴュルツブルク篇)


胸元には勲章、豊かにたくわえた口ひげと鋭いまなざしで前を見つめる男性の胸像ー。こんな人に道で出くわしたらおっかなくって思わずよけてしまうようなオーラを醸している。

胸像の台座に刻まれているのは「日本研究者に捧ぐ」という献辞。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796ー1866)がこの胸像の主である。

日本が外に向かって門戸を閉ざしていた時代に長崎の出島に滞在し、日本の情報や文化、そして植物をヨーロッパに伝えた。医師であると同時に博物、植物学者であり、かつプラントハンター。日本とドイツをつなぐ大きな架け橋となった人物なのだ。


プロイセンと日本の間で修好通商条約が交わされた1861年から160周年に当たる記念すべき年に、彼に少し近づいてみようとドイツでのゆかりの地を訪ねてみた。

画像1

シーボルト博物館を訪ねる


ヴュルツブルクはシーボルトの生誕の地。銅像はシーボルトが医学を修めたヴュルツブルク大学のすぐ横の小さな広場に立っている。目の前の公園では大学生がバドミントンしたり散歩したりと人の姿も多く、シーボルトも若者に囲まれて幸せじゃない、なんて思ったりする。

さて銅像を後にして彼の足跡を辿るためにシーボルト記念博物館にトラムで向かった。

「次はシーボルト博物館です」

中央駅から10駅ほどすぎたあたりで日本語による可愛らしい子どものアナウンスが流れた。その声にいざなわれるように降りた駅には日本語で書かれた道案内があり、それにそって歩くと日本国旗が掲げられたクリーム色の建物にたどり着いた。

画像2


1995年にオープンしたこの博物館の1階部分ではシーボルトの歴史記録を展示し、2階は日本の歴史や現代を紹介する構成となっている。

シーボルトは医師を輩出する名家の出身

日本では世界史に必ず登場し、知らない人の方が少ないシーボルトだが、ドイツでは日本あるいは植物に関心がある人以外にはあまり有名ではない。それでもシーボルトがヴュルツブルクで特別な存在なのは代々医師を輩出し、貴族の称号も持つ名家の出という出自によるところが大きい。

一族の中で最も有名なのはシーボルトの祖父、カール・カスパー。ヴュルツブルク大学で解剖学、外科そして産科医の博士号を取得し、ドイツ近代外科学の父と位置づけられている。シーボルトの父を含む3人の息子はいずれも医師で、孫、曾孫も医学の道に進んだ医師だらけの一族。

シーボルトの娘、楠本イネが日本初の女性産婦人科医になったのも周囲の後押しもあったろうが、シーボルト家に流れる血筋が必然的にそうさせたのかもしれない。

画像3

シーボルトに文句を言いたい

博物館には18、9世紀に使われていた医療器具や日本の工芸品、絵や写真、シーボルトについて書かれた記事などが飾られていた。そしてふと、ある日本語で書かれた記事のコピーに目が留まった。シーボルトが二回目に来日した折に、娘のイネに色々な頼みごとをして困らせたという内容。

これを読んだ時に頭をよぎったのは「娘にまたしても迷惑をかけたのか!」という憤りだ。すでに亡くなった、しかも偉人に鞭を打ちたいわけではない。永久国外追放という処分もそりゃ大変なこっちゃだったと思う。けれどどのような事情にせよ内縁の妻だったタキと娘のイネを残してドイツに戻ったシーボルトの仕打ちはちいとひどくないかと思っていた。

画像4

タキとイネの二人はシーボルトが帰国した後大いに苦労している。特にイネは混血児として差別を受け、父の教え子に強姦されるという形で娘を妊娠、出産した。

そしてだ。シーボルトは再来日で2年間日本にとどまった折には身の回りを世話する女中に手をかけて妊娠させ、イネは怒り心頭で2人を引き離そうとしたがシーボルトは新しく雇った女中にも手をかけたというではないか!

シーボルトを呼び出して問いただしたい。「君は女性をどう思うとったんや。なぜずっと会っていなかった娘を困らせるようなことばかりするんや」(怒るには大阪弁)と。

さらに言わせてもらえば、私がオペラ「蝶々夫人」を観賞してもどうも没頭できないのはシーボルトのせいだ。架空の話と思えば素敵な悲恋話と受け止められるのに、シーボルトの例を知っているがゆえに外国男の身勝手な話としてしかとらえられず音楽に集中できない。


とあれこれ並べ立てても、私ごときが怒っても仕方がないのは分かっている。当時と今では世の中もモラルの基準も全く違う。妾とかが当たり前のように扱われていた時代。

それだけでなくプラントハンターと称される人物の記録を読むと、得てして他人を省みない変わりものが多い。誰も見たことのないような植物を手に入れて名をあげ、あわよくば一攫千金をと願う狩人たち。植物を追っていてもちっとも草食系なんかでなく、肉食系の人たちなのだから。

画像8

シーボルトゆかりの植物を見に植物園へ

いや、あげつらうのはよそう。聖人君子では世界史に名を残すことはできないのだと肝に銘じるべし。次に彼の功績を見るためにヴュルツブルク大学付属植物園に場を移してみる。


325年の歴史を誇る植物園は市の南端に位置していて、北米の草原地帯の植生を再現した区画やシャクヤク・ボタンのコレクションなどが見られる屋外の一角にシーボルトゆかりの植物約150種類を集めたコーナーがある。

シーボルトゆかりとはどういう植物か、といえば①シーボルトの二回にわたる来日で日本からヨーロッパに持ち出された植物②シーボルトがツッカリーニ・ミュンヘン大教授とともに分類、国際的に通用する植物名をつけて公表した植物③シーボルトに敬意を表して他の植物学者がシーボルトの名を冠した植物ーなどが含まれる。

画像6


ドイツをはじめヨーロッパの植物園では、植物にラテン語名表記のプレートをつけているが、その名前の横に小さくSieb&Zucc.と書いてあったり種小名にsieboldiiやsieboldianusなどとついているのがシーボルトにまつわる植物の目印だ。(さらにヴュルツブルク植物園ではシーボルトゆかりの植物には日本語名もプレートに書かれていた)


シーボルトによって知られるようになった日本の植物は数多くあるのだが、ちょっと例をあげてみるとバショウ、カツラ、クサボタン、キササゲなどなど。

画像7

植物園を訪れた時にはちょうどアジサイ(Hydrangea macrophylla ssp.macrophylla f.otaksa)が咲いていた。(本来は青いのだが酸性土壌でないと赤く変色する。この時は赤かった)

シーボルトが自分の好きなアジサイの花にタキの名をとってオタクサと命名した経緯を考えると、タキへの愛がじんわりと伝わってくる。シーボルトによる2人への仕打ちには大いに文句があるけどちょっと許しちゃうかという気にさえなる。

画像8

植物を通じて日本を伝える

日本の植物をヨーロッパに広めたシーボルトの功績は偉大だ。今やドイツの公園であろうが個人の庭であろうともはや欠かせない。

でもそれだけにはとどまらない。ヴュルツブルク植物園のホームページにシーボルトの植物コーナーについて解説した動画があり、その中でキリ(桐)が取り上げられている。

「スポンサーを探していたシーボルトはロシア皇帝のニコライⅠ世に謁見することができました。そして仲介してくれた皇帝の姉でオランダ王妃アンナ・パヴロヴナにお礼として紫色のきれいな花が咲くキリにPaulowniaという学名を与えました」という命名のエピソードの後で

「キリは成長が早く、日本では娘が生まれるとキリを植えて、花嫁道具としてそのキリで作ったタンスを持たせました。それだけでなく日本政府のシンボルマークとしてもキリが使われているのです」と説明が続いていた。

こういう説明を聞いているとシーボルトの功績はなによりも植物を通してドイツ人に日本という遠く離れた国に関心を持ち、理解してもらえるようにしてくれたことなのだとつくづく思う。

画像9

シーボルトにお礼をこめてnoteを綴る

シーボルト博物館の2階では東日本大震災から10年を迎えて当時の写真や震災後の復興についての特別展をやっていた。

振り返ってみればたくさんのドイツ人が悲しみとショックに包まれていた日本に心を寄せて、支援の手を差し伸べてくれた。シーボルト協会もその一つで、多額の寄付を募って岩手県一関市の児童養護施設の再建に協力してくれたという経緯がある。

シーボルトがつないでくれた日本とドイツの二つの国。私の植物を巡る旅はそんなシーボルトヘのお礼の気持ちが少しこもっていたりする。

彼が日本のことをドイツに伝えてくれたように、私も植物を通じてこの味わい深いドイツのことを日本に少しでも伝えることができたらいいな、そんな気持ちで旅をしながらnoteを綴っている。



 


いただいたサポートは旅の資金にさせていただきます。よろしくお願いします。😊