世界と呼吸

「本を読むというのは、自然を読むというのは、呼吸を合わせ、共に歩くということである。」
(2021/3/19「ペンギン」より)

本を読むという行為は私の生活の何分の一かを占めている。
それは昔からでなく、最近そうなっているのだが、その「本を読む」ことの価値というものについて、私は答えを出せずにいる。
それはもちろん私の怠慢によるものなのだが、「本を読む」という行為がいかようにも比喩されるようで、私はその比喩の霧から抜け出せないのである。
私はある一定のリズムを持って、本について、読書について何かを書いているような気がするが、いつもちゃんと答えを出さずに、その「本を読む」の中でも面白いと思われる現象について、それを探究し、その意味や価値について表現しようと努めてしまう。
それもそれで悪いことではないのかもしれないが、「本を読む」ということについて正面から向かい合うだけの力が私にはないのだ。
では、その力はいかにして身につくのか、世にある読書論なるものはどのようにして形成されてきたのか、それを考えてみると、私は一つのことに気がつく。
皆、本を読んでいるのである。
それだけなのだ。
本を読んで、「こう読んできたよ。」とか、「こう読んだらいいんだ!」とか、口々に言うけれど、皆、本を読んでいるだけなのだ。
本を読むということについて、いやすべてのことについて、周りにあるものは参考にはなるけれど、決定まではいかない。
決定するのは私なのだ。
「この本が面白いよ。」とか言われても読むか読まないか決めるのは私だ。「この本は面白くなかったね。」といくら信用できる審美眼を持つ人が言ってもその価値は、面白くないか面白いかは私しか知らない。
これは一見独断論に見えるが、自分の読書についての考えを、いやすべてのものに関する考えを自分で引き受けるという宣言なのである。
読書論というものを書こうとすると、どうしても「本を読む」ということを壮大な行為のように書いてしまうが、「本を読む」というのは呼吸くらい自然なことなのである(これがまた壮大すぎると思われそうなのであるが、そんなことを言っていたらすべてのものやことは壮大なのである)。「本を読む」ことはその根源性ゆえに知的な営為の全てに似ている。
創作も「これまで」を読むことだし、踊ることは「流れ」を読むことだし、それぞれ「読む」という根源的な行為を通して、私たちは自らの身体や精神を回復するのである。
そしてこの比喩の固まり、系統は他の受動的な行為を積極的に行うことについても同じことを言っている。
たとえば、「見る」ということも上の「読む」に代入すれば齟齬のない文章が出来上がるだろうし、「聞く」ということだって、「生きる」ということだって、能動的に行われる受動的な行為はすべてそのような性質を持つのである。
さて、そんなことを言ってしまえば、「本を読む」ということの特異性などまったく見えてこなくなってしまう。
けれど、なぜか「読む」とか、「聞く」とか、「見る」とか、そういうことに分化しているのはどうしてか訳がありそうである。
それを五感とか、それに伴う器官とか、そういうものに求めるのはどこか寂しい議論になりそうである。
私はそれらの生み出すものによってそれらを分類したい。
ここで問題にするのはとりわけ能動的に受動的な「読む」「見る」「聞く」である。
どれも能動的で受動的な行為である。
ここで一つだけ注をつけると、この「能動的で受動的」という当たり前の文言はこういうことを示している。
つまり、いつもしているが意識しながらすると別物のように感じてくる行為ということを「能動的で受動的な行為」としているのである。
こんな定義をすると、「いつもしている」というのはどういうことか、とか、「意識しながらする」とはどういうことか、「別物のように感じてくる」とはどういうことか、とか、どうでもいい批判をされそうなので、一つだけ例を出しておこう。
私たちは一日のうちに数多く「読む」「見る」「聞く」をしている。しかし、私たちは何も読んでいないし、見ていないし、聞いていないのである。
私たちは森に行くとその空気を全身で感じるが、都会の空気を全身で感じようとすることはない。
私たちは広告を真剣に見ようとは思わない。重要なところだけを見ようとそれらを見ている。
私たちは鳩の鳴き終わりを知識としては知っているが、それを聞くことはない。
私たちは常日頃世界を見ているが、写実的な芸術性が私たちに突きつけてくる「見ていなかっただろう。」という批判を突っぱねることができない。
私たちは私たちが思うよりも読んでいない、見ていない、聞いていない。
私たちのその「自然な」態度は生活に慣らされたものであるが故にそうなっているのかもしれないが、あまりにも私たちは受動的に行為している。
しかし、それは見方を変えると、普段からカタルシスへの奉納を続けていると考えることができるかもしれない。
つまり、私たちは「読んでいなかった!」「見ていなかった!」「聞いていなかった!」と驚くためにそれらを習慣として行なっているのである。
と、まあ、これは言い過ぎたが、私たちは藝術によって受動的な行為の能動的な可能性について教えられる。
その媒介が大抵、能動性そのものに近いような行為によってなされるのはどうしてなのだろうか。
「文章を書く」とか「絵を描く」とか「音楽を作る」とか、普段しないような行為、それらによってそれらを認識させられるのはどうしてだろうか。
極めて能動的な行為によって我々の習慣となった受動的な行為が能動的で受動的な行為となるのはどうしてだろうか。
それは世界が律動してくるからである。元来、世界とは律動なのである。流動というよりも律動なのである。
と、広々と羽を広げたところで、少しだけ高説してもらおう。

読書というのは誰かと並び歩くことなのです。
歩いているのか踊っているのかわからなくなるでしょう。呼吸がこの誰かのものなのか、それとも世界全体のものなのかわからなくなるでしょう。見ている森や海や空はそれ自体浮かび上がってくるでしょう。
それが本を読むということなのです。
それはまるで自然が私たちと歩くような現象でしょう。
自然もまた私たちを読んでいるのです。
心配そうな顔をしながら、私たちが読むのを、歩くのを、雄大な呼吸で見ているのです。
固唾を呑んで見守っているのです。
だから本を読むと、この世界が静かに見えるでしょう。
まるで呼吸をしていないように感じられるでしょう。
それは間違いではありません。
自然は息を止めて私たちを見つめているのですから。
私たちは本来静かな世界に生きているのです。
騒がしいのはその価値を知らない者だけです。
激情とは、本当の激情とは堪えきれない静かさのことなのです。
死は、それを知っています。世界もそれを知っています。
知らないのは私たちだけでしょう。
けれど、それでも、私たちは知っています。
その激情を、静かさを越えていくことを!
自然がもう一度始める呼吸の轟音を、そして光を!

世界がこのような叫びに覆い尽くされ、すべての概念や知をもってしても、身体をもって、踊りをもってしても、どうしても受動的にならざるを得ない存在。
私たちはそんな存在なのであり、それを受け容れると、別の道が開ける。
世界と対立も闘争もせず、私たちはただ一緒に歩くのだ。語り合うこともなく、ただ歩くのだ。
呼吸だけを合わせながら。

原文。
https://note.com/0010312310/n/n6bc3cdbd97c6?
magazine_key=m9920a7cfb3cd

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?