「なんというか、」から始めよう

 私は文章を書くとき、特に「日記」を書くとき、「なんというか、」から始めることが多い。それはまだわかっていないことを手探りで考えたいと思っているからである。だから、わかっていると思っていることでもとりあえず、「なんというか、」から始めてみるということがある。
 
 このことから私は何かを書こうとした。ただ、なんというか、分岐がいくつかあって、どれが面白いのかがわからない。私にとってはどれも面白くない。なぜなら、もう考えているからである。だから、「なんというか、」ということは「分岐がいくつかあ」ることに向けられている。つまり、その順序にだけ向けられている。もちろん、パスカルが言うように新しい言葉ではなく新しい順序を見てほしいと思う人がいることもわかるが、私は別に新しい何かを見てほしいわけではない。美しい何かを、または豊かな何かを、力強い何かを、そういったものを見てほしいわけではない。見てほしいことなどない。と言うためにはあからさまに条件が整っていないし、整っていようと整っていまいとそのことの条件が整うということとそのことが起こっていることは同じことである。
 さて、いつもの癖で面白そうなところに突っ込んで行ってしまった。あと、皆さんには全く関係がないのだが、今日はなんだか素敵なものを書くことができない気がする。上での「何か」は「素敵」であってほしい。私は一人語りをしよう。

 私は素敵に生きたいと思っています。
 豊かに生きたいとか、美しく生きたいとか、力強く生きたいとか、そういう願いはまったくありません。あるように見えるかもしれませんが、それは君が投影しているだけです。
 私が唯一、君たちに許すのは素敵に生きたいという投影だけです。

 私はいつの日からか、私の願いが叶うならば大学院に入った時から、私の快楽をそれであると、固定し誘惑する必要に駆られてきました。それは単純に修士論文を提出するというタスクがあるからです。私の願いはこの停滞、衰退、枯渇が修士論文によってもたらされたことを知ること、それのみにあります。もし、そうでなかったとするならば、私はおそらく、そのことを隠して生き続けるでしょう。

 君!君はとても危険なことをしているのがわかっているのか!!

 この怒りがわかるでしょうか。わからない人に「信仰」のなんたるかはわからないでしょう。

 私は私を特権化するのではありません。私は何も特権化しません。

 あ、書くことが決まりました。私は後輩に独我論、特にウィトゲンシュタインの独我論について話しました。後輩は適当に聞き流して、そして言いました。

寂しいっすねえ。

 そう、寂しいのである。ただ、私はその寂しさが共有され、少し寂しさがやわらいだような気がした。
 私は寂しそうな人が好きです。実際に寂しい人であるかどうかはわかりません。私には。寂しそうな人が好きです。私はたまに寂しそうです。私から見れば。ただ、私は寂しそうな私は好きではありません。嫌いでもありません。なんというか、屹立しているな、と思うだけです。それを「悟り」だのなんだの言って、台無しにしてしまおうなんて思いません。
 私は論理的に書く訓練を受け、その余波を私自身にたどり着くようにして、そして静かにすることで、月の光が湖の底まで届くのを待っています。私は湖の底で照らされ、そのことによって存在するのですから。慌ただしい、私の思想に対する鷹揚さ、それも好きですが、今日はその気分ではありませんでした。
 
 私は私を誘惑するのに疲れました。私は蠱惑されていたのです。これは願いでもありますが。これは危険な、慰めです。

 推敲した。その私は思います。それぞれを凝縮して、よく言えば凝縮して、悪く言えば適当に書いているなあ、と。私に必要なのは元気と勇気、そして根気です。私にはどれもありません。それは修士論文にそれらを持っていかれているからではありません。それならありがたいと思うほどに忘却が騒がしいからです。寂しい人になろうとしているからです。寂しそうな人ではなく。

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