立春 二十四節気小噺

春は立つ。
まるで、クララが立ったように。
春が立った。
街の人の顔は色めき、それこそ春のようにおぼろげで、カラカラと火照った、かわいい表情を見せてくれる。
立春は今で言う2月4日ごろのことらしいが、僕たちはその時に春が立ったのを知ることができるのだろうか。
人間は季節を感じるのではなく、季節を感じられるから人間なのだ。
と、僕は思う。
自然に感じることのできる人は物凄い才人で、凡人には先取りしなければそれは感じることができない。
あの鳥が鳴いたから、あの花が咲いたから、そんな曖昧なことではなく、春がきたから、春が立ったから、こんなに明確な自信を持って、春を迎えようとする覚悟。それがなけらば、僕たちは季節を知ることができないのだ。
春が立った。
そういうからには、春は座っていたのだろうけれど、それならば春はいつから座っていたのだろう。
冬の間は春が来ない悲しみが人を押さえつけているような気がして、春は死んでしまったようである。
秋の間は、秋のあの緩やかな許しの空気が春を忘れさせてしまうから、春は存在しないようである。
夏の間は照りつける太陽が春を恋しく思わせるから春は座っているような気がする。春はまたまたそんなに激しく遊んで。と微笑んでいるような気がする。
あの、和やかな微笑みを見せていた春が立ったのだ。
だから、季節は喜んであんなにも人間を虜にする、温かい気持ちにさせる、季節を覚えさせてくれるのだろう。
けれど、あまりに煌びやかな春の囁きは人の心の寂しさをも引き立てるようで春が立つのではなく春が立てているような気がせんでもない。

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